Welcome to SWAN 2001 Homepage


 
 
かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の小樽 (一)
 
 

樺太を偲ぶ
かって日本最北端開発の雄図を抱いて樺太に渡り 風雪寒苦に耐えながら 北辺の理想郷を造り上げた我らの父祖 更には彼の地に生を享け かけがえのなし郷土とする数多くの同胞 且つ又業を興し産業発展に寄与した 幾多の企業にとって樺太は永遠に忘れることができない 引揚以来すでに二十有余年を経てなお望郷の思い止み難く 今は全国に別れ住む樺太関係者が力を合せて 此のゆかりの深い小樽の丘に 樺太を偲ぶ記念の碑を建立して 後世に遺そうとするものである。
昭和四十八年九月十二日

 これは、朝日展望台の近くに建つ「樺太記念碑」全文。(公式の碑文はこのように分かち書きをしておらず、連なった一文なのですが、今回は、実際の碑の様子を見て、句読点に相当する部分の空白を活かしてみました。)
 かつて、小樽の港を発って樺太の地に向かった人たちにとって、海を望む小樽の丘に望郷の碑が建つことにはさまざまな感慨があったことと思われます。
 記念碑のことを調べていていちばん驚いたのは、当時、市内に、樺太からの引揚者が一万人もいたこと。小樽の人口のピークは昭和39年(1964年)の「二十万七千人」です。その約十年後の小樽で、まだ一万人もの引揚者が暮らしていた事実には感じ入ってしまいました。樺太からの引揚者。シベリア抑留で亡くなった人たち、生きて帰ってきた人たちの想いは、その後の小樽(あえて「北海道」とは言わない)の生き方を深いところで規定するものではないでしょうか。

 除幕式の模様を伝える翌朝の新聞。

望郷の思い切々 小樽の樺太記念碑が完成
懐かしい国境標も 6年がかりの募金実る
【小樽】 遠いふるさと――樺太をしのぶ記念碑が小樽市内を一望にできる市内・旭展望台の一角に完成、十二日関係者らが集まって盛大な除幕式が行われた。高さ三・三メートルの同碑はみかげ石製。「樺太と別れて住む樺太関係者が力を合わせてゆかりの地・小樽に…」――碑文は切々とした調子で父祖の地・樺太を歌いあげている。
 同碑を建立したのは樺太引き揚げ者団体連合会小樽支部(荒井治作会長)。小樽には現在でも約一万人の樺太からの引き揚げ者がいる。大部分の人たちが「今もなお望郷の念にかられている」という。このため、四十年ごろから「樺太記念碑を作ったら…」という話が持ち上がっていた。
 そこで四十三年には同連合会小樽支部が中心になって記念碑建立期成会がスタート。道内はもちろん全国の樺太引き揚げ者に対して協力を呼びかけた。その結果、市の好意で建立揚所は旭展望台と決まり、寄付も集まったためこの八月十六日から建立のための作業が始まった。
 出来上がった記念碑は工費が約三百五十万円。高さ三・三メートル。土台を除く碑の部分は六十センチ四方で材料はみかげ石、碑の先端には戦前北緯五十度の日露国境に建てられていた「南樺太国境標」が復元され、菊のご紋章が入るなど当時の姿そのまま。また「樺太記念碑」の文字は堂垣内知事、「境界」は稲垣市長の筆になるという。
 この日の除幕式には地元小樽をはじめ、札幌、苫小牧などから引き揚げ者約百人が出席、荒井同期成会長ら関係者が玉ぐしをささげた後、荒井会長のお孫さん、ゆきのちゃん(四つ)ら二人が幕を引くと、出席した人たちから大きな拍手。「もう一度、故郷に帰ってみたい」――こんな声があちこちから上がっていた。
(北海道新聞 昭和48年9月13日)