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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の後志 (二)
 
 

 この、シリベシ山麓をたずねたのは、一九六一年の九月だった。山の南側にひろがる真狩(まつかり)原野。虻田郡真狩村は、アスパラガスも作っているが、ジャガイモ畑のほうがはるかに広大な面積をしめている。いま、ここはジャガイモの収穫どきだ。イモ掘り作業をやっているのは、ほとんどが季節労務者である。かれらは、仕事を求めて全家族が移動して歩く。(中略) 生活の本拠は一応岩内なり余市なりにあっても、こんな調子では、児童もろくに学校へ行けないだろうと、私の訪間は長欠児童の実情をみることに目的があった。
(本多勝一「北海道探検記」/シリベシ山麓にて)

 本多勝一の「北海道探検記」。「私(本多勝一)がここで紹介するところは、ほとんどが案内書に出ていないところか、出ていても旅行の方法が違うために別の面をあらわしているところばかりである」と豪語する通り、知床半島の突端でのキャンプとか、無人島・渡島大島への上陸とかが続くのだけど、ここで一転、羊蹄山麓のジャガイモ掘りに場面が転換。
 うん?これって、ありがちな北海道風物じゃないのかい…という道民の声に、「甘いなぁ(そんな駄文を俺が書くかよ)」と嬉しそうに反応する本多勝一の顔が見えるようだ。

 小林さん一家が毎秋ここヘイモ掘りにくるようになったのは八年前からだ。樺太の引揚者で、岩内町に住んでいる。春はスケソウ漁、夏は田植え、秋はイモ掘り。農民というより、正確には日雇労務者だ。一家七人のうち、夫婦と下から三人のこどもの五人がイモ掘りにきている。真狩には、このような季節労務者が約二〇〇世帯八○○人、おもに岩内や余市から毎年やってくる。
(同書より)

 本多勝一の文章は、彼ら「イモ掘りさん」たちの子どもたちの描写を細かくして行く。

 念のために五.六年生の増設学級の出席簿をみせてもらうと……「欠・欠・出・欠・早退・欠・出・欠・早退・出……」。まず三分の二以上は欠席と早退だ。この学校では九月にはいって四日から八日までを農休にしたが、あんまりひどいので一一日からさらに一週間の農休を迫加した。
(中略)
 若い先生二人の説得が続く
「いまはこどもにとって大切な時期ですからね。ここでおくれると、連鎖反応的におくれてゆきますよ」
「ハア、もうおくれています。うちの四年の子は、三年生の学力ぐらいかな。ますます学校へ行きたがらなくなる」
「でもね、小林さん。将来ってものがありますからね、こどもさんの」
「それはそうだけどなあ先生、わしらのこどもの将来なんか、もうハア知れてますさ」
(中略)
 先生たちの姿が雨の中に消えると、小林さんはストープでイモを焼きながら、自分の一生をつぶやいた。樺太でニシンがいくらでもとれたころの話。札幌に引揚げ、岩内町へ移ったとたんに大火で焼けだされ、バラックにはいったまま続いている今の生活。そして最後の嘆息は――「わしらも人間のオシマイのところまで来ちゃったなあ」
(同書より)

 で、(後志の「イモ掘りさん」たちの子どものことを書くだけ書いて)本多勝一の文章は、ポーンと日高の沙流郡平取の小学校長の話へ飛ぶわけですね。文部省の全国一斉学力テストに反対し、テストを実施しなかったため停職処分を受けた校長先生の話へ。

 なんかなぁ… 「イモ掘りさん」話は、自分の記事を引き立たせるためのダシなのかよ。手口がかなり内地的。私ら「どーみん」には、ちょっと恥ずかしくてできない技ではありますね。