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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の後志 (一)
 
 

 明治四十三年の九月から十月、徳富蘆花(健次郎)は北海道旅行へ。
 明治〜大正の文人たちの北海道紀行としては、後期といっていいのだろうか。使っている乗物が完全に鉄道にシフトしていて、もう船旅は一切出てこなくなる。

 九月十六日。大沼を立つ。駒が岳を半周して、森に下つて、噴火灣の晴潮を飽かず汽車の窓から眺める。室蘭(むろらん)通ひの小さな汽船が波にゆられて居る。汽車は駒が岳を背(うしろ)にして、ずうと噴火湾に沿うて走る。長万部(をしやまんべ)近くなると、湾を隔てゝ白銅色の雲の樣なものをむら/\と立てゝ居る山がある。有珠山(うずさん)です、と同室の紳士は教へた。
 湾をはなれて山路にかゝり、黒松内(くろまつない)で停車蕎麦を食ふ。蕎麦の風味が好い。蝦夷(えぞ)富士/\と心がけた蝦夷富士を、蘭越駅(らんこしえき)で仰ぐを得た。形容端正、絶頂まで樹木を纏うて、秀潤(しうじゆん)の黛色(たいしよく)滴(したゝ)るばかり。頻(しきり)に登つて見たくなつた。車中知人O君の札幌農科大学に帰るに会つた。夏期休暇に朝鮮漫遊して、今其帰途である。余市(よいち)に来て、日本海の片影を見た。余市は北海道林檎の名産地。折からの夕日に、林檎畑は花の樣な色彩を見せた。あまり美しいので、売子が持て来た網嚢(あみぶくろ)入のを二嚢買つた。
 O君は小樽(をたる)で下り、余等は八時札幌に着いて、山形屋に泊つた。
(徳富蘆花「熊の足跡」)

 したがって、旅の終点は樺太ではなく、当時の北海道縦貫鉄道の終着駅・釧路。(かなり啄木の北海道漂泊のルートに近い…) 蘆花の宿泊ルートを書き出してみると、

往路:勿来関〜浅虫〜大沼〜札幌〜神居古潭(旭川)〜名寄〜春光台(旭川)〜釧路
復路:釧路〜茶路〜白糠〜陸別〜旭川〜小樽〜札幌〜青森〜弘前

 ほぼ明治四十年当時の北海道鉄道路線をきれいに通過していますね。(宗谷方面は名寄が終着駅) また、ルートの起点が、今私たちが当然と思っている「札幌」ではなく、「旭川」であることもちょっと目を惹きます。なぜ?

君が三ヶ月日に焼けた旭川!
明朝六時半釧路に向ふ、
  二十日夜     旭川宮越屋にて 石川啄木
 宮崎大四郎様
(石川啄木/明治四十一年一月二十日 旭川より 宮崎大四郎宛)

 啄木の大事な親友、パトロンでもあった宮崎郁雨は、前年、「一年志願兵」(突然の徴兵を免れるために自分から志願して軍役に応じる制度があった)として旭川の野砲第七連隊に赴いていたのです。「一握の砂」に、「演習のひまにわざわざ/汽車に乗りて/訪ひ来し友とのめる酒かな」と宮崎郁雨を詠った歌がありますが、これは、旭川に入営中の郁雨が休暇を利用して小樽の啄木一家を訪れた際の光景を詠ったものです。
 啄木にとってもそうですが、当時の北海道を語る時、「鉄道」というキーワードひとつでは足りない。もうひとつ、「軍隊」というキーワードが必要なのではないかといつも感じます。(と、デカい口をきくわりには、私も、保阪正康著「最強師団の宿命」に出てくる「旭川第七師団ゆかりの文学者たち」の章の受売りひとつなんですけど…) 当時の北海道の人たちの生活に、いかに「軍隊」の存在が身近にあったか、もう少し精密に考えてみなければなりません。

春光台 腸(はらわた)断(た)ちし若人を
  偲びて立てば秋の風吹く
(旭川・寄生木小公園/徳富蘆花歌碑)

 春光台に二泊もした徳富蘆花。第七師団を舞台とした蘆花の小説「寄生木」。春光台にはそのモデルの小笠原善平を偲んだ句碑が建っています。