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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の札幌
 
 

 家族の皆様方、無事に居られるでしょうか。長い間、心配を掛けて済みません。私と松木さん(京都外大大学院生)は、元気です。途中で合流した有本恵子君(神戸市出身)供々、三人で助け合って平壌市で暮らして居ります。事情あって、欧州に居た私達は、こうして北朝鮮にて長期滞在するようになりました。基本的に自括の生活ですが当国の保護下、生活費も僅かながら月々支給を受て居ます。
 但し、苦しい経済事情の当地では、長期の生活は苦しいと言はざるを得ません。特に衣服面と教育、教養面での本が極端に少なく、三人供困って居ります。取り敢へず、最低、我々の生存の無事を伝へたく、この手紙をかの国の人に託した次第です。とに角、三人、元気で暮らして居りますので御安心して下さる様、御願い至します。
 松木さんの実家(熊本市)、有本君の実家(神戸市〔以下略〕)の方へも連絡願います。更に、この手紙を送ってくれた方へ、そちらからも厚く御礼をしてくれる様、御願いします。  息子・亨より
(棟方周一「平壌からの手紙」)

 行方不明から八年、突然届いた石岡亨さんからの手紙。平壌からの手紙。「私と松木さんは元気です」、「途中で合流した有本恵子君」、「取り敢へず、最低、我々の生存の無事」… 小さな紙片に、書かなければならないこと、直裁に書けないが察してもらわなければならないこと、そして、家族や関係者に回復不可能の絶望感を与えないために文面に細心の注意を払っている石岡さんの姿が痛々しい。この手紙をいつも身に潜ませて、投函してくれる外国人旅行者を待っていたのだろう。

 当時私は、北海道南西部の磯谷郡蘭越町に手造りのログハウスを建てて自給自足を目指した生活をしていた。ある日高校時代のクラスメート(後に何度も登場する「爺様」)から、「突進太(石岡)が北朝鮮で生きてるって……」という興奮した電話が入った。その友人がいうには、札幌の豊平警察署から連絡があり、当時、仲の良かった人物を紹介してほしいと頼まれているから、私のことを教えても良いかとのことだった。私も真相を知りたかったので、もちろん諒解して受話器を置いた。(突進太が生きている)
(同書より)

 突進太。爺様。そして、紋次郎。当時を知っている人なら、これらのニックネームが何に由来するかはすぐにピンと来る。(突進太は、梶原一騎原作のマンガ「柔道賛歌」の主人公・巴突進太。紋次郎はご存じ「木枯紋次郎」) 「平壌からの手紙」を読んでいると、あまりにもこの「突進太」や「紋次郎」がピタッと嵌っていて、七十年代後期の大学生たちをまざまざと思い出す。
 石岡さんの言葉づかいも懐かしい。「供々」、「自括」、「御願い至します」… 私もこんなだったと懐かしく思い出すのだ。(「みぞうゆう」とはちがう) そう、「自活」を「自括」と書くから石岡さんだったのであって、「有本恵子君共々」と書いたら突進太ではなくなる。「三人供」、よど号グループによって北朝鮮に騙し連れさられた。

 IさんとMさんは平壌に連れて来られて招待所で生活を始め、思想教育を受けさせられました。(中略) ところが、Mさんが森さんに恋愛感情を持つようになりました。それがキッカケになって、どういう経緯か正確には分かりませんが、教育によって十分にマインド・コントロールできないうちに、Mさんは、自分たちが騙されて北朝鮮に連れてこられたことを見破ってしまいました。
 もともと、Iさんが友人宛の手紙で書いているように、彼らは北朝鮮に一カ月程度の観光旅行と思って来ていました。長期間いるつもりはなく七月にはマドリッドに戻る予定だったのです。ところが、「よど号」グループが北朝鮮から容易に彼らを帰してくれないとわかったので、彼らは大変腹を立てたのでした。
 森さんは、Mさんに顔面を殴られたと私に言ったことがありました。Mさんが騙されたと言ってカンカンになり暴行事件を起こしたというのです。当時、二人の教育係だった岡本武は二人に「騙される方が悪いんや」と言い放ったということも聞いています。IさんとMさんへの思想教育は失敗し、一度信頼関係が壊れた人をマインド・コントロールすることは困難となり、「よど号」グループは、この二人の扱いに苦しんでいきます。
(八尾恵「謝罪します」)