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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の小樽 (二)
 
 

 「現代の神隠しか 深まる謎  有香ちゃん失踪事件」

 八月十一日朝、千歳市支笏湖町泉郷の石山洋平さん宅から、製版業森脇道弘さん(四十四歳)の長女、保育園児の有香ちゃん(五歳)が、散歩に出たまま帰らないという一一〇番通報があった。一週間たった現在も有香ちゃんは見付かっておらず、手掛かりはない。森脇さんは東京在住で、夏休みを利用して一家で友人の石山さんの別荘に遊びに来ていた。
 現場は標高五百メートルの別荘地。傾斜地で五歳の幼児ではそう遠くに行けないと見て、捜索隊は警察犬五頭を投入し、石山さん宅から半径ニキロ以内の山林の捜索や、付近の別荘の聞き込みをした。
 もっとも気にかかる有香ちゃんの安否だが、もし山中に迷い込んだのなら夏でも十度以下に冷え込む標高でもあり、食べ物もないことから五歳児の体力では絶望的というのが関係者の見方だ。地元では、変質者のいたずら目的や交通事故の証拠隠しで連れ去られた、などの噂がある。
 これらに対し、恵庭署では@現場は別荘地の一番奥にあり、外部からの人の出入りがほとんどないA失踪時、下の管理事務所では車を見なかったB近所の別荘でも不審な人物は目撃されていないC付近には交通事故の跡がない、などから『事件事故に巻き込まれたケースは考えにくい』としている。

 これは、桐野夏生の小説「柔らかな頬」冒頭。1994年8月11日の森脇有香ちゃん失踪事件を報じる新聞記事の体裁をとっていますが、実際の北海道新聞記事ではありません。(あたりまえか…)
 でも実際の道新記事ではと錯覚させるほどの働きをしているのが、じつは、支笏湖という地名が持つ威力ではないかと私は考えています。桐野夏生の隠れた必殺技。この事件、この人間には、もうここしかありえない!という地名をポーンと持ってくる。だから、五歳の女の子の失踪には支笏湖。四年後、有香ちゃん目撃情報が上がってきた場所が小樽の朝里海岸。

 カスミは石を踏んで波打ち際に近付いた。波は全くなく、黒い色の海水が寄せるというのでもなく、どんよりと溜まっている。小さな巻き貝までが黒く、丸い石に無数にくっついている。カスミは気味悪さに悲鳴を上げた。生き物のにおいのしない黒い海。ここに有香がいる訳がなかった。
(桐野夏生「柔らかな頬」)

 こいつは強いわ…隙が全然ない… 初めて読んだ桐野夏生がこの本でした。繰り出してくる北海道地名の的確さに唸ってしまった。小樽市朝里を、このように使う小説家が出現したことに正直身震いがした。なぜ朝里なのか、私にはよくわかる。朝里の海岸の向こうは森脇カスミが生まれた喜来村なのだから。

 カスミは屈み込み、海の水に指で触れてみた。冷たかった。この海を陸沿いに北に向かえば、自分の生地に行き着くのだ。突然、漂流しているという感覚が蘇り、涙が頬を伝った。涙はカスミの立っている石の上にこぼれ落ちた。その染みもまた黒い。
(同書より)

 うー、凄い。