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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の小樽 (一)
 
 

 小樽には珍しい赤い煉瓦造りの建物、「海猫屋」。その、怪しい客たち。暗黒舞踏ダンサー。自称「失業中」、自称「女優」とうそぶく小樽滞在者たち。旅回りのベース奏者。そんな登場人物たちの元締め、海猫屋のマスターは今日もカウンターの席でこう呟く。意識をはっきりするために。

 海猫屋(旧磯野商店)、建築年明治三十九年(1906年)、構造レンガ造三階建……建物の外に小樽市観光課の札が貼りつけてあり、赤いレンガ造りの建物の由来が書き記されている。
「小林多喜二の小説『不在地主』のモデルとなった磯野商店が倉庫として建てたもので、当時、一階は佐渡味噌、二階にワラジやムシロ、三階は家財道具が格納されていた。この建物の建築請負人は、中村組で、壁の構造は地震対策として二重レンガ積、屋根は防火のために瓦が用いられ、雪にも耐えられるよう一枚ずつ鉄線で固定された堅固な建物である」
(村松友視「海猫屋の客」)

 三日続きの三十度に、マスターは(雪の小樽でなく灼熱の小樽ってのも、また一興か…)とも呟く。とにかく暑い。早く夜にならないか。

「清宮さん、こっちこっち!」
 頭の上から野太い声がしたので見上げると、吹き抜けになった二階の手摺りからマスターが身を乗り出して手招いていた。
「ああ、二階ですか……」
「キャバレーはやっぱり、二階だべさ」
(中略)
「ここは、ニシン御殿の別荘だったのさ」
(同書より)

 静屋(しずや)通り。小樽日報記者・石川啄木も歩いたこの通りの一角に建つ「キャバレー現代」。旧「白鳥家」別宅。明治小樽のニシン漁三大網元の一つ、白鳥家が明治42年に建てた別宅でありました。大きく張り出した赤い屋根、白い漆喰の壁、背の高い門柱、格子窓など、随所に明治の風情があふれる。夜になると、店内の灯が外にもれていた。

 キャバレー現代。戦後まもない昭和21年、杉目繁雄は、ここ静屋通りで汁粉屋を開業。その後、昭和23年に米国領事館から特別に許可を得て、進駐軍向けのビアホール「GENDAI(現代)」に至った。港に出入りしていた米軍の水兵たちが訪れ、店は大繁盛。そして昭和26年、店の名前を「キャバレー現代」と改め、日本人客も利用できる店として本格的オープン。

河島さん、心配しなくていいんだよ、小樽人はちょっと病気みたいなとこがあってね。小樽に住んでいながら、小樽、小樽って話してさ、よくもまあ飽きないと思うけど、このあたしだって同じ病人、やっぱり小樽の話は好きだもんね。
(同書より)

 キャバレー現代のホステスたち。全盛期で五十人ほど。みんな家族のようなつきあいをしていたので、何十年もつとめる人が多く、平均年齢が高め(というか、婆さん)だったことが店の大きな特徴ではありました。小樽で、「海猫屋の客」たちが語り合う場所を探すなら、どんなへっぽこ作家だって、もうここしかないでしょうね。

 そんなキャバレー現代は、平成11年(というか、1999年)の八月末、半世紀の歴史に幕を閉じました。残念。私が小樽に来た頃は、まだ現役であったのに! なんか、「海猫屋の客」などでちやほやされているのが鬱陶しくてうっちゃっている間に閉店してしまいました。ちょっと悔しいけれど、やはり縁がなかったんだろうな。進駐軍とかジャズとかには、私は幾分冷たいんです。