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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の札幌 (三)
 
 

 きょうは、明治四十二年の八月十六日だ。初めてここへ訪問してから、もう、三ヶ月余りを樺太に経過した。そしてそれが殆ど全く失敗の経過であった。ここに滞在しているうちに、向うから多少回復の報知が来ればよし、そうでなければ、北海道で一つ何かいい仕事を見附けなければならない。
(岩野泡鳴「放浪」)

 岩野泡鳴が「ここ」と言ってるのは、札幌。マオカでの事業に失敗した「義雄」は、樺太を脱出し、札幌で某女学校教師をやっている友人の家に転がり込みます。この、札幌滞在の三ヶ月のあれこれを描くのが、「泡鳴五部作」と呼ばれる連作小説のひとつ「放浪」なのですが…

 いやー、「放浪」一編を読み通すだけでもキツかった! とても五部作(残り4編)なんか、読んでいられない。なんか、リビドーっていうか、意識が薄野界隈を一歩も出られないような気が塞ぐ小説なんだもの。もちろん、今の尺度で、明治の人間を切り裁く愚かさは充分わかっているつもりだけど、なんというか、生理的に受けつけないものを感じます。たぶん、その根底には、岩野泡鳴自身が、こういう自分をカッコいいと思っていることが原因なのではないか。

 空気読めよ…と言いたくなる。明治42年といえば、有島武郎31歳。遠友夜学校代表となり、神尾安子と結婚。翌年には「白樺」創刊。「カインの末裔」出現まであと8年という当時の「札幌」の時間の中で、まだこんな明治の無頼に酔いしれている人間がいることに驚きます。二年前に「札幌」を通過した啄木だって、二週間もあれば、この「札幌」で起こっている新しい美学の台頭に気づいている気配があるのに、この泡鳴の暢気さはどうしたものだろうか。

 酒は大部まわった様だ。あちらにも、こちらにも、芸者の三味線に乗って、なかなか上手な端唄やら、都々一などが初まる。(中略)『では、先生、僕が一つ歌って聴かせましょうか』と、メール社の追い分上手と云われる一記者が進んで来て、それを歌う。なか/\うまい物だ。そして、その芸者は三味を合せながら、スイ/\と云うかけ声をする。
『おしょろ――たかしィま――(ア、スイ)およびはないが、よ――(ア、スイ/\)せめて――(スイ)うたすつ――(ア、スイ)いそやまでょ――(ア、スイ/\)
 その簡朴悠長にして、哀韻嫋々、どこまでも続いて、どこまでも絶えず、細く、長く、悲しい響きを伝える。それを聴くと、義雄は今、一方に、北海原野の単調な雪景はこうもあろうかと感じ、また一方に、早くお鳥を呼ぴ寄せ、そんなところで二人しッぽり一と冬を暮して見たいと思う。
(同書より)

 たとえば、白秋なら、こうなります。

  碓氷(うすい)峠の権現さまよ、わしがためには守り神
  送りましょかよ送られましょか、せめて峠の茶屋までも
というようなものになっています。この信濃追分が北越の航路から蝦夷地へ流れ流れてゆくうちに、いつとなく波の響きや櫓拍子の中で洗われ揉まれて、遂にはあの船唄としての追分の哀調になったのでしょう。その土地土地で松前追分とか渡島追分、江差追分とか呼んでるのがそれです。新潟辺ではそれを松前節としていますが、それは逆輸入から来た一種の錯誤感で、こういうことは東洋と西洋との間にもよくありますよ。浮世絵と後期印象派、芭蕉あたりの象徴句とマラルメあたりの仏蘭西象徴派との関係、調べるとまだいくらもあるでしょう。ところで、忍路高島ですがね。
  忍路高島およぴもないが、せめて歌棄磯谷まで
  帯は十勝にそのまま根室、落つる涙の幌泉
(北原白秋「フレップ・トリップ」)

 なんか、ちんたら三味線とベンチャーズのエレキ・ギターくらい、ちがう。

 まあ、引き合いに白秋を出した責任もあるので、詩人・岩野泡鳴の名誉回復のためにも、詩「札幌の印象」を引用します。泡鳴はこれで充分と感じました。そして、これはまた一転、じつにいい詩だ。