八月の札幌 (一) |
女に学問はいらないという風潮が残る明治初期、医学の道を志した女性がいた。日本最初の女医、荻野吟子である。夫に膿淋をうつされた屈辱と痛みから、同じ悩みを持つ女性を救うべく、かたくなな偏見と障害を乗り越え、医師の資格を得、医院を開業。社会運動にも参加した。(文庫版帯より) というのが、渡辺淳一の「花埋み」。これを持って、渡辺淳一の代表作とするのであれば、私には何の異議もありません。良い作品だと思う。(これ一冊以外、いらないとも思うが…) 「北海道になら新しい土地が貰えそうなのだ」 「それでどうなさるのです」 「決っているではないか」 志方は人懐っこい眼に笑いを浮べていった。 「基督教徒の理想郷を作るのだ」 「まさか……」 (渡辺淳一「花埋み」) 物語後半、夫の志方之善とともに北海道瀬棚の利別原野(インマヌエル村)に入植して行くくだりには何度読んでも心が騒ぎます。「日本最初の女医」物語であることに加えて、その舞台が「蝦夷の原野」であることに驚くのです。それも、明治もかなり早い時期の北海道であることに。(啄木の北海道漂泊が明治40年であることから考えても、荻野吟子のインマヌエル入りの明治27年6月というのは驚異的) 夫・志方の夢に見事に心中しようとする荻野吟子の姿が胸を打つ。原野の開墾に疲れ果て、同志社大学への復学を決意した志方は、荻野吟子にもこう言います。都会に戻りなさい、と。こんな原野で朽ち果ててはいけない、と。 「貴方がどうしてもと言うなら…」 「すべてが中途半端だった」 志方は呻くように呟いた。 (同書より) 瀬棚の医院は借りたまま「一時休業」として吟子は養子のトミを連れて札幌へ移ります。明治36年の初夏、同時に志方は京都の同志社へ。札幌にはかつて吟子が好寿院に学んだとき内科学の助教師をしていた撫養太郎(むや・たろう)が区立病院長として来ていました。 二カ月経った八月の初め、吟子はかねて考えていた通り「札幌で開業したい」旨を撫養(むや)に告げた。もちろん賛成してくれるものと思ったが、撫養は小首を傾げて考え込み、それから少し言いにくそうに言った。 「なかなか札幌は大変だと思いますよ」 「覚悟はしていますが」 「いまの瀬棚ではいけませぬかな」 「それが……」瀬棚では中央にあまりに遠く、置き去りにされた気持になるのだと吟子は言った。 撫養はうなずき、それから、「遠慮なく言わせて貰うが」と前置きをして言い始めた。 「正直言って貴女の学んだ医術は二十年前のものだと思います。もっとも東京を離れてからは十年間でしょうが、この間医術は想像もできぬほど進んでしまいました。私自身好寿院で教えたことが恥ずかしくなるくらい変ってしまいました。年々優秀な新進医家が医科大学を卒(お)えてやってきますがあの頃の医術はもはや通用しません。私でさえ彼等に遅れまいと新しい知識を得るのに精一杯といった状態です。失礼だが貴女はこの十年間、開拓、転住と心労多く大変だったろうが、いかんながら医術の新しい知識はほとんど得ていないと思います。田舎ならともかくそのような状態で札幌で開業してやっていくにはなかなか大変だと思うのです」 (同書より) いつも、この場面に来ると、なんとも言えない切ない気持ちになります。いったい、荻野吟子の一生って何だったのだろう…と。「残念ながら二十年前、優秀な医学生であったというだけでは足りないのです」という撫養の言葉はそれほどに残酷。 身の程も弁えず、愚かなことを考えたものだ。 吟子は車窓から暮れていく秋の野面を眺めていた。住む家もなくもちろん人影もない。どこまで走っても野が続く。小樽で買い与えた弁当を食べてトミはすでに寝入っていた。 (同書より) |