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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



七月の後志
 
 

 『日本国民に告ぐ
 あなたは自分や親兄弟友達の命を助けようとは思ひませんか助けたければこのビラをよく読んで下さい
 数日の内に裏面の都市の内全部若しくは若干の都市にある軍事施設を米空軍は爆撃します
 この都市には軍事施設や軍需品を製造する工場があります軍部がこの勝目のない戦争を長引かせる為に使ふ兵器を米空軍は全部破壊しますけれども爆弾には目がありませんからどこに落ちるか分かりません御承知の様に人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはありませんですから裏に書いてある都市から避難して下さい
 アメリカの敵はあなた方ではありませんあなた方を戦争に引っ張り込んでゐる軍部こそ敵ですアメリカの考へてゐる平和といふのはただ軍部の壓迫(あっぱく)からあなた方を解放する事ですさうすればもっとよい新日本が出来上がるんです
 戦争を止める様な新指導者を樹(た)てて平和を恢復したらどうですか
 この裏に書いてある都市でなくても爆撃されるかも知れませんが少なくともこの裏に書いてある都市の内必ず全部若しくは若干は爆撃します
 豫(あらかじ)め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難して下さい』
(菊地慶一「語りつぐ北海道空襲」より)

 米軍機から撒かれたビラ。その裏面には爆弾投下の米軍機の写真があり、爆撃を指名された12都市が書いてある。佐賀、八幡、都城、今治、鳥取、岩国、高山、浦和、福島、八戸、秋田、そして、小樽の名が。
 ビラは小樽市博物館の所蔵。ただし、小樽市内にばら撒かれたものであるかどうかは不明。(市博物館所蔵のビラは、昭和55年、岐阜県在住の人から寄贈されたもの)

 爆撃は昭和20年の7月14日から15日にかけて実行されました。以下、菊地慶一氏の「語りつぐ北海道空襲」から「後志」関連をひろってみます。

●寿都空襲(死者:16人) 七月十五日、米機が襲来、寿都湾を航行中の暁部隊の小型船舶が襲撃を受けて沈没。…(「寿都町史」より)
●岩内空襲(死者:6人) 七月十五日午前六時頃、雷電沖を航行中の汽船船団にグラマン数機が襲いかかり、壮烈な海上戦になった。…(「ハマナスのかげで」より)
●共和空襲(死者:0人) 昭和二十年七月十四日午前九時すぎ、南東方面から米グラマン機九機が飛来し機銃掃射の後、玉川鉱業所に爆弾を三個投下した。…(「共和町史」より)
●神恵内空襲(死者:0人) 七月十五日午前十一時、米グラマン数機が神恵内沖を航行中の輸送船団を襲った。…(「郷土かもえない」より)
●積丹空襲(死者:13人) 七月十五日午前六時頃、来岸沖合四キロ付近を航行中の輸送船祥保丸(一、三〇〇トン)が爆撃され、沈没。…(「積丹町史」より)
●古平空襲(死者:21人) 七月十五日午前六時頃、米国艦載機グラマン三機の急襲にあい、マンガン鉱石積み込み中の汽船「射水丸」が撃沈され、二十一人が死亡した。…(「古平小史」より)
●余市空襲(死者:0人) 七月十四日、十五日に米軍艦載機の空襲があり、爆弾を投下された。…(「余市自治発達史」より)

 そして、小樽。この章のタイトルは「犠牲者ゼロから三十三人へ」となっています。

●小樽空襲(死者:33人) 七月十五日の空襲で三十一人が犠牲になった。内訳は軍人(海防鑑乗組員)十五人、軍属五人、労務作業員二人、船員二人、漁夫一人、鉄道員二人、主婦一人。…
(「昭和二十年七月十五日の小樽−小樽空襲の記録その一」より)