七月の小樽 (五) |
明治16年の暮れ、ジョン・バチラーと許嫁のルイザ・アンドリューズは函館を発って東京に向かいます。そして、明治17年元旦、英国公使館で正式に結婚。一月中旬にホームの函館へ戻ります。直接に平取へ行きたかったのでしょうが、当時の英国・日本間の条約では、外国人は自由に日本の田舎に住むことを許されていませんでしたから、居住地は今まで通り函館となりました。 バチラーたちが平取に向かったのは六月の末。おそらく新婚旅行みたいな意味合いもあったのでしょうか、バチラーたちはいつもの室蘭ルートを使わず、クラークやモースたちも通った船による小樽上陸ルートを選びます。 小樽へは七月一日着きました。この時分の小樽は実に寂しく公園もなくアイヌ人もわずかしかおりませんでした。今こそ小樽ははなはだ大切なところとなって人口も十三万余りあって、しかも立派な港もあり、商業上では北海道第一位の所となっておりますが、その時は別になんにも見物するところがございませんでした。 (ジョン・バチラー「我が記憶をたどりて−ジョン・バチラー自叙伝」) すでに幌内鉄道は開通していますから、モースたちが味わったような札幌までの苦労はかなり軽減されています。それでもまだまだ閑散とした町ではあったのでしょう。六年前のモースは、町に洋食の店がなく、連日の和食責めに閉口して、さかんに函館のパンと牛乳を懐かしがっていますが、バチラーの本にはあまりそういう記述はありません。幌内鉄道のおかげで、パンくらいは普及していたのかな。 ただ一つ小樽の端にある手宮というところの軟岩に古代文字が削ってあるということを聞きましたので、それを見にまいりました。(しかし今そこにある文字は昔私が見た文字と違っております。)その時には何の意味があるのか一向わかりません。 (同書より) へえ、手宮洞窟にもフゴッペみたいな経緯があったのかな? いろいろの説明を聞きましたがある日本人の人がその文字を読むことができるそうでこれは昔のトルコの文字だと申したそうですが、私はそれを信ずることができません。またある人は古代支那文字ですと、ある人は宗教の坊主の徴章だろうと、ある人は、いいやあれは獣の絵だろうと、ある人は昔の蒙古の言葉でしょうと、またある人は死んだ人の印だろうとも申します。またあるひどい人は、いいえあれはだれかの悪戯でしょうとまでいうのです。どれを聞いても見ても一つもしっかりした根拠があるのではなく、どういう意味かということはいまだにわかりません。ともかく人は誰でもよいかげんのことを言うので困ります。「知らずを知らずと言ふはこれ即ち知るなり」とそれは本当です。学ぷべきことです。誰でも当て事を言うことができても、よろしく「知らず」と言うことのできる人は真に稀です。 (同書より) もうひとつ、フゴッペみたいなエピソードが。 この古代文字についてペンリさんにアイヌが書いたものかを尋ねてみたら、ペンリさんはアイヌには文字がないと申されました。そしてなお言葉を次いでこう申されました。「昔から和人の役人たちは日本語や文字を学ぶことを許しませんでした。また金銀を持つことも許しませんでしたが、何のためかわかりません」と申しました。 (同書より) 違星北斗誕生まで、あと十八年… |