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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



七月の小樽 (四)
 
 

 七月二十五日。我々は蝦夷の西海岸にある小樽へ向けて出発した。乗船は漕艇位の大さの木造蒸汽船で、日本人が所有し、指図し、そして運転してゐる。私は船中唯一の外国人であつた。
(モース「日本その日その日」)

 クラーク来道から三年、明治11年7月26日の昼、またもや玄武丸は小樽・手宮桟橋に到着します。降り立ったのは東京大学生物学教官のアメリカ人、エドワード・モース。同僚、矢田部良吉も一緒です。モースはいうまでもなく、東京の大森貝塚を発掘調査し、日本に考古学の学問系統を紹介した「日本考古学の父」として知られているアメリカ人。
 

 港と海岸とは、非常に絵画的である。妙な形の岩が、記念碑みたいに、水面からつつ立つてゐる。三六〇図は、これ等の顕著な岩のあるものの写生である。
(同書より)

 海岸にこんな岩が立っていたんだ… ほとんど積丹。
 「日本その日その日」の大きな特徴は、ふんだんに載せられているモース自身が描いたスケッチ。百三十年も前の小樽が活き活きと蘇る。たとえば、下の図は、「外国の蛮人」を窓から無遠慮に覗き込む百三十年前の我らが先祖。函館のスケッチにはついぞ描かれない光景ですが、都会(函館)を一歩出れば、「蝦夷」ってこんな感じだったんだろうなぁとつくづくと偲ばれます。
 

 モース一行が小樽に滞在していたのは7月26日から29日までの四日間。一行は郡役所と交渉し小型の蒸気船を二日間借り上げ、湾内の浚渫調査を実施したり、町の裏手の小さなアイヌ・コタンで儀式があると聞いては、そこに出かけたりしています。
 29日、一行は札幌に向って出発。この時、札幌までたどった道は、クラークと黒田清隆たちが通った道と同じ、現在のJR函館線経路に沿った幅二間道路。
 

 はるか遠くには、函館へ帰つて行く我々の乗船が見えた。美事な懸崖もいくつか過ぎたが、(略) 数哩行つた所で、私は初めて馬に乗つた。私は馬に乗りつけてゐるやうな様子をして乗つたが、まことに男性的な、凛然たる気持がした。(略) 十哩にわたつて路はデコボコな小径で、而もある個所は非常に険しかつた。切り立つた沿ふて行く時には、書物に所謂「一歩をあやまれば」私は千仭の深さに墜落してゐたことであらうが、馬の方でそんな真似をしない。
(同書より)

 やー、今私たちが見ている神居古潭だ!(あの崖下の海岸沿いを通って今でも電車が小樽へ入ってきます)
 一年後の明治12年にはクロフォードらの尽力で安全な通行ができるようになる車馬道ですが、モースたちが通過した明治11年7月の道は(特に朝里−銭函間の崖道は)、クラークが味わったのと同じかなり危険な道路だったようです。
 馬はかなり貴重な乗り物なのでしょう。(クラークの場合は、学生たちは銭函まで漁船で迂回させられていますからね) 乗馬の経験がないモースは、開拓使用意の馬を曳いて歩くのに疲れ、初めての乗馬を試みたようです。結局、朝7時に小樽を出発したモースと谷田部が札幌に着いたのは午後4時でした。この当時の小樽−札幌間は、ある意味、船の函館−小樽間より大変かもしれません。幌内鉄道の有難さが身に滲みます。