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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



七月の余市
 
 

 一九六九年(昭和四十四年)七月十二日、イギリスのデーリー・エキスプレス(The Daily Express)は『日本、スコッチの市場に侵入』という見出しで、大きな記事を掲載した。
 これはデーリー・エキスプレスのニューヨーク駐在記者たちが、ニューヨーク・タイムスにのったニッカの広告を見て……。
 “ニッカとは一体どんな味がするのか、われわれは町で一本、58シリソグ4ペンス払って、ニッカとスコッチの最高級もの二本、計三本を買ってかえり、新聞社でブライソド・テスト(目かくしテスト)をしてみた。その結果、これが日本製だろうと皆んなが指摘したウイスキーは、悲しいことにスコッチでも最高の十二年ものであった”
 とその様子を詳しく書き、さらに
 “英国がもっていた自動車のアメリカ市場を日本は食い荒したが、次に日本は英国のもっとも神聖な輸出商品スコッチになぐり込みをかけてきた”
 という警告記事を英国に送った。この記事は英国で相当の反響を呼んだときいている。
(竹鶴政孝「ウイスキーと私」)

 この栄光の日までに、いったいどれほどの歳月が流れたことだろうか。北海道余市に工場をつくってからでも三十余年。大正七年の七月初め、スコットランドでのウイスキー修行に神戸港から東洋汽船・天洋丸に乗り込んだ日から数えれば、すでに五十余年の歳月が流れている。自ら「ウイスキーにとりつかれた人生」と題をつけたこの章からは、竹鶴政孝の万感の想いが伝わってくるようだ。

 竹鶴の自伝(この「ウイスキーと私」ともう一冊「ひげと勲章」)が、日本人にありがちなど根性一代記にならず、なにか品とか味を感じさせる造りになっている仕組みは、ひとつには、「スコットランド」「ウイスキー」などといったハイカラな舞台背景のせいもあるだろうが、私的にはもうひとつ隠し味、竹鶴の妻「ジェシー・リタ・カウン」の存在が大きいと感じます。

 一九一九年のクリスマスはカウン家から招待を受けた。
 私はクリスマス休暇をもらって勇んで実習先のローゼスからグラスゴーに帰ってきた。
 イギリスでは、クリスマスの日のために、何ヵ月もかけてつくるプディングがある。この中に六ペンスの新しい銀貨と、裁縫に使う指ぬき入れて、占いを楽しむ習慣があった。めいめいでケーキを切って食べるが、その中に銀貨がはいっていると、その人は「金持ちになれる」、女の子に指ぬきが当たれば「いいお嫁さんになれる」、そしてもし、女の子に指ぬき、男に銀貨が入っていれば二人は将来結婚するという、たわいのない占いである。
 ところがその年のクリスマスには偶然にもリタのケーキに指ぬき、私のケーキに銀貨が入っていたのである。このとき二人は家族の皆からひやかされたが、こうして二人の気持ちは、次第に近づいていった。だが、まだ、お互いに口に出していうまでにはいたらなかった。
(同書より)

 私は「嵐が丘」ファン・クラブ。ですから、こういうさりげない一節にけっこう気分が良くなります。余市工場の記念館にあった昭和8年のリタの肖像写真が頭の中に浮かぶ。なんか、久しぶりに「工場ウイスキー」呑みたくなった。