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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



七月の小樽 (三)
 
 

 函館を午前十時に出帆した玄武丸は、七月三十一日午前二時に小樽へ入港したが、まだ小樽札幌間の鉄路も通じていなかったおりのこととて、K田長官とクラーク先生の一行とは、それより陸路を肥馬にむちうって札幌へ驀(ばく)進し、学生どもはうすぎたない漁船に身を託して家もまばらな錢函(ぜにばこ)に向かい、それより五里十一町の道をうまにゆられて人口わずかに二、三千にすぎなかった札幌へと向かって行った。
(昭和22年 文部省『中等国語二(2)』/大島正健「クラーク先生」)

 大島正健なら「クラーク先生とその弟子たち」を使いたいところなのですが、あいにくコピーをとらずに図書館に返却してしまったので…こちらでご勘弁を。

 大島正健(おおしま まさたけ)。宗教家・教育者・言語学者。札幌農学校(現在の北海道大学)の第1期生であり、クラーク博士の教育指導を直接受けた一人。クラークの「Boys, be ambitious(青年よ、大志をいだけ)」との言葉を後世に残す上で大きな役割を果たしました。
 私は長い間、新渡戸稲造や内村鑑三も「クラークの弟子たち」だと思っていたのですが、「クラーク先生とその弟子たち」を読んで、厳密に言うと、クラークの直接の指導を受けたのは一期生の大島たちだけであり、二期生の新渡戸たちはクラークに会ってはいないのだということを初めて知りました。ですから、例えば、内村鑑三が如何にしてキリスト教徒になりしかに深く関わっているのは、クラークではなくて、じつは大島正健だったりするのですね。そういう意味では、大島の漢詩「懐クラーク先生」はとても味わい深い。

 青年奮起立功名
 馬上遺言籠熱誠
 別路春寒島松駅
 一鞭直蹴雪泥行

 現在の山梨県立甲府第一高等学校には、なぜか、クラークの「Boys, be ambitious」碑が建っているのですが、これは大島が甲府一高の前身・山梨県立甲府中学校の校長を勤めていた時代、その薫陶を受けた一人、石橋湛山が残したものです。

 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」のカンパネルラのモデルといわれる保阪嘉内もまた、この大島の教えを直接に受けた一人。大島を尊敬する嘉内は、当然のように、その進路を東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学農学部)に選びます。しかし、夢かなわず不合格。すべり止めで受けていたのが盛岡高等農林学校でした。

 「やはらかに柳青める北上」にわれむかわんと心勇めり

 嘉内が入った寄宿舎「自啓寮」南九号室の室長が二年生の宮沢賢治。嘉内は「トルストイを読んで百姓の仕事の崇高さを知り、それに浸ろうと思った」と述べ、室長の賢治は「トルストイに打込んで進学したのは珍しい」と評したそうです。運命的な出会いとは、まさにこういうことをいうのでしょうか。なにか、「クラーク、最後の弟子たち」とでも言ってみたい光景ですね。