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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



七月の小樽 (一)
 
 

 石原慎太郎の「弟」を読んでいたら、おもしろい箇所にぶつかった。

 小樽での最初の家のあった松ヶ枝町近辺にはいくつかの聖域があって、一般の家庭の子供たちはそこへの出入りを禁じられていたものだ。一つはルンペン村と呼ばれる失業者と怠け者の吹き溜まりで、住人の中には大学の卒業者までいるという噂だったが、全体が饐(す)えたような匂いのする一角だった。
 母は家で使ったり食べたりして余ったものを彼等のために箱に入れて家のごみ箱の上に置いてやっていたが、それを多とされてか母は連中の間で人気があり、道ばたで村の住人に行き合ったりすると、昼間から酒を飲んでいる誰かが大声で礼をいったり時候の挨拶をしたりして、こちらが赤面することもあった。
 そんなせいで私たちの顔も覚えられて、何かでその集落にまぎれ込んだりした折、他の子供たちは怒鳴られ追い払われたが、地域の住民も私たちだけには愛想がよかった。それでも私(慎太郎)はその場所がなんとなく疎ましく空恐ろしい気がしていたが、弟(裕次郎)だけは一人平気でその一角に出入りしていた。
(石原慎太郎「弟」)

 この「ルンペン村」とは、山中恒の小説「サムライの子」の舞台「サムライ部落」ですね。そうですか、石原裕次郎もここに出入りしてたんだ…(なんだか感無量)

 ここは、もともと、サムライ部落といわれていたわけではなかった。戦争がおわったあと、引き揚げ者や、内地(本州)の戦災者のための、厚生寮になっていた。それが、いちじしのぎに建てられた、仮兵舎なので、雨もりや、風とおしが、すこしばかりよすぎたのである。
(山中恒「サムライの子」)

 主人公・田島ユミもここの住人となった。学校にも通い始め、ようやくサムライ部落での暮らしに慣れ始めてきた矢先、ノブシの一団がここに移送されてくるという話が持ち上がる。ノブシとは、サムライのさらに下層の集団。大臣視察にともない、おそらく、環境美化かなんかの名目で小樽市はルンペン村の整理統合(つまり、ボロかくし)に打って出たのでしょうか。
 実際、山中恒が「サムライの子」を書いていた昭和33年(1958年)7月は、北海道博覧会が開かれていた時期でもあります。小樽会場も盛況(「おたる水族館」もこの博覧会がきっかけで誕生した)を呈していましたので、こういう話はざらにあったのではないかと思います。

 先生とわかれて、家へもどると、父が、だれかと話をしていた。
「ただいま」
「ああ、お帰り」
「ほう、いいむすめさんだなあ」
 父の相手をしていたのは、ノブシのなかまらしい。着ているジャンパーも、ぼろぼだし、ズボンのひざはさけ、そこから、土色の足が出ている。はいている地下たびも、ばくばくで、指がのぞいていた。身につけているものは、なにひとつ、まんぞくなものはない。これぐらいなら、まだ、はだかのほうがよさそうだと思えるくらいだった。
「そんなになげえことはいねえだ。大臣がきちまえば、それきりさ。それに、もう、朝のうちにずらかったのもいるだよ。なんぽ、屋根のある家だって、このへんにゃ食堂もないし、旅館も、ホテルもないもんな」
(同書より)

 「食堂」「ホテル」と聞いて、驚くユミ。こんな身なりの連中が? しかし、それはすぐに「残飯あさり」の隠語だと気づいてがっかりするユミではありました。
 「サムライの子」は、このノブシの一団との遭遇によって、さらにボルテージを上げて行きます。その真骨頂が、ノブシの子「ミヨシ」の登場でしょうか。

「さっきの歌っこ、教えてけれ」
 ユミは、ミヨシにたのまれるままに、このきたない生徒たちに、歌を教えた。この子どもたちは、人から歌をならうことなど、めったになかったのだろう。たいへんな、ねっしんさだった。(中略) やがて、うす暗くなると、みんな、それぞれに帰っていったが、ミヨシだけは、あとにのこり、そっとユミにたずねた。
「ユミ、おれ、学校へいけるか、あした、先生さんにきいてくれっか」
「うん」
(同書より)

 映画版のミヨシ役の子の怪演(!)が今でも頭をはなれない。でも、もともとが、小説の「ミヨシ」という造形がすでに凄かったのだと、今の私は思っています。本当に、「サムライの子」は、何度読んでも感動する。