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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の札幌 (二)
 
 

 明治8(1875)年開拓使より苗木の配布を受けたりんごは、同14年には結実し始め、明治17(1884)年頃には本格的な栽培が始まった。明治27(1894)年には北海道のりんご栽培面積695haの42%を占め、札幌はりんご栽培の中心であった。
 (中略)
 戦後、廃墟の中でりんごの歌が全国に流れ食料不足の中でりんごは飛ぶように売れた。昭和20代には平岸りんごの最盛期となり栽培面積270haに達し、天神山の高台から平岸街道の両側および現在の自衛隊病院や木の花団地から平岸霊園あたりまで、りんご園が一面に広がっていた。しかし間もなく栽培面積の減少へと向かった。その後急激に減少し昭和41年には50ha足らずになったと言われる。
 その引き金となったものは、@昭和33年木の花団地の造成、A36年豊平町の札幌市への編入、平岸街道用水路の埋め立て、B37年南22条橋、翌年南大橋の開通、C札幌オリンピックに伴う真駒内団地の開発と地下鉄の開通等である。
(「碑−記念碑に見る北海道農業の軌跡」より「平岸林檎園記念歌碑」)

 北海道協同組合通信社より2008年に発行された「碑−記念碑に見る北海道農業の軌跡」。とても重宝しています。北海道の全市町村をカバーしていない(京極町は不参加)のはちょっと残念だが、それでも、記念碑の配列が「稲作編」〜「畑作・園芸」〜「酪農・畜産」といったように作物別に並んでいるため、例えば、啄木にまつわり道内の「林檎」記念碑を調べるといった場合、余市〜札幌〜深川の6基を押さえればよいことがたちどころに判るという優れもの。

 平岸の天神山公園は啄木の「石狩の都の外の/君が家/林檎の花の散りてやあらむ」の歌碑が建っていることで有名ですが、厳密にいうと、この歌を平岸にかけるのは少し勘違い。啄木が詠った「君が家」とは、元村の橘智恵子の家なのですから。(ま、そんな細かいこと、どうでもいいか…) その点、同じ天神山にある久保栄の「林檎園日記」文学碑の方が、まさに平岸の林檎を顕すものではないでしょうか。久保栄は「林檎園日記」のために平岸を取材。また、この碑を建てたのは、平岸に生まれ、平岸に死んだ作家・澤田誠一らの尽力だったのだから。以下、その碑文です。

六月六日(月曜日)晴
 上田の畑からもとの新畑へかけて、今日ぐらゐがもう満開で、うちのは平均し三分咲きほど。乳いろにうす紅(べに)をぼかした花が五輪づゝかたまって咲く梢から、甘ずっぱい匂ひがして来て、そこらにいつぱいなるのをかぐと、どういふわけか、子供の頃、百人堀にそって山の湖水の方へかよってゐたガタ馬車の、あのピポ、ピポーと鳴らしてとほる笛の音が思ひ出されて、まだ丈夫だったお母さんが、いまわたしのしてゐる帆前掛をかけて園内作業をしている姿が、眼にうかんで仕方がない。
(平岸天神山/久保栄「林檎園日記」文学碑)

 この碑文は「林檎園日記」の第二幕冒頭。除幕式は日付どおり平成3年(1991)の「六月六日」に行われました。