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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の後志
 
 

 平成15年6月、ニセコの有島記念館の前庭に「カインの末裔」の文学碑が建立されました。以下、碑の全文。行分けも碑文の通りに揃えてみます。

 長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら、
 彼は黙りこくって歩いた。
 大きな汚い風呂敷包と一緒に、
 章魚のように頭ばかり大きい赤坊をおぶった彼の妻は、
 少し跛脚をひきながら、三、四間も離れて
 その跡からとぼとぼついて行った。
 北海道の冬は空まで逼っていた。

 蝦夷富士といわれるマッカリヌプリの麓に続く
 胆振の大草原を、
 日本海から内浦湾にぬける西風が、
 打寄せる紆濤のように跡から跡から吹き払って行った。
 寒い風だ。
 見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは
 少し頭を前にこごめて風に歯向いながら
 黙ったまま突立っていた。
 昆布嶽の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて
 日は沈みかかっていた。
 草原の上には一本の樹木も生えていなかった。
 心細い程真直な一筋道を、彼と彼の妻だけが、
 よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。

 「カインの末裔」が世に出た時の衝撃というものをよく想うことがあります。いったいどれほどの衝撃であったことだろうか、と。それほどに、主人公の「広岡仁右衛門」という造形には今読んでも悪魔的な魅力が充満しています。たぶん、その後の、小林多喜二から現代の峯崎ひさみまでの「北海道文学」(というものがあったとしたならばの話だが)の原初型みたいな位置にこの作品はあるのではないでしょうか。

「こんなに亜麻をつけては仕様がねえでねえか。畑が枯れて跡地には何んだったできはしねえぞ。困るな」
 或る時帳場が見廻って来て仁右衛門にこういった。
「俺らがも困るだ。汝が困ると俺らが困るとは困りようが土台ちがわい。口が干上るんだあぞ俺らがのは」
(有島武郎「カインの末裔」)

 無頼の肉体に宿る意外にも近代的な理知。べたべたした温帯モンスーンの中ではなかなか実現しにくいこういうスタイルも、亜寒帯の風雪の中ではその造形が可能であるということを有島武郎は私たちに示してくれました。そう、たぶん、私の身体にも「カインの末裔」の血が二三滴は流れていて、良くも悪くもいろんな場面で人生をとち狂わせる。

 長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら… 雪の中、狩太(かりぶと)の地に辿り着いた広岡仁右衛門。しかし、同じ無一文で狩太を出ていく時には、失うものなどもう何もないと思っていたのに、さらに彼は我が子と馬を失っていた…というラストの光景がいつも私に黒々とした感銘を与えます。