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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



六月の小樽 (一)
 
 

 須賀敦子。1929年兵庫県生まれ。聖心女子大学文学部外国語外国文学科卒業。20代後半から30代が終わるまでイタリアで過ごし、40代は上智大学外国語学部教授。著書、「ミラノ霧の風景」「ヴェネツィアの宿」「トリエステの坂道」「ユルスナールの靴」など多数。1998年没。
 この須賀敦子が、よりによって、小樽に来て、鮨を食って、北一硝子に行って、石原裕次郎記念館に行っていたなんて、今でも信じられない。とりわけ、須賀敦子と石原裕次郎の取り合わせなど、考えただけでも身震いする(笑)
 やはり、仕掛けは関川夏央だったみたいですね。朝日新聞の書評委員会仲間の松山巌が「闇の中の石」で第7回伊藤整文学賞を受賞したのを口実に、小樽で祝宴を!という話が持ち上がったらしい。(ふーん)

 須賀さん、ぼく死ぬかも知れません、席に帰ってそういうと彼女は、あらたいへん、といった。顔がまっ青だわ、ほんとうに死にそう。
 鮨だと思います。なにかの魚のアレルギーです。
 すごいのねえ、アレルギーって。こんなところで死んじゃ駄目だよ、セキカワ。
(関川夏央「石ころだって役に立つ」/「須賀敦子の風景」より)

 「こんなところ」とはずいぶんなご挨拶。(まあ、それくらいのミスマッチではありますが…)

「個性を失ふといふ事は、何を失ふのにも増して淋しいもの。今のままのあなたで!」(『遠い朝の本たち』) そう高等女学校四年の須賀敦子の、バースデイ・ブックに書いてくれた友「しいべ」は、難病と戦った末、五十歳代で北海道で亡くなっていた。彼女はあのとき、しいべのためにも一度北海道へ行ってみたかったのだ、だから承知したのだ、とその最後の本『遠い朝の本たち』の、巻末の二行を読んではじめて私は気づいた。
「しいべが逝って何年も経ったある六月の朝、私は友人たちと小樽にむかう列車に乗っていた。雨もよいで、土色に濁った海が白い泡をたてて線路のむこうに渦まいていた」(『遠い朝の本たち』)
(同書より)

 須賀敦子には須賀敦子なりの理由があって、それで小樽に来たんだということがわかってホッとした。読み始めた時、この話いったいどうやってまとめるんだ…と訝ったけれど、読み終わってみれば、どっちの顔も立つようなエンディング。よかった、よかった。(何が?)