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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の石狩
 
 

 止せ、止せ
 みじんこ生活の都会が何だ
 ピアノの鍵盤に腰かけた様な騒音と
 固まりついたパレツト面の様な混濁と
 その中で泥水を飲みながら
 朝と晩に追われて
 高ぶった神経に顫へながらも
 レツテルを貼つた武具に身を固めて
 道を行くその態は何だ
  (高村光太郎詩集「道程」より「声」)

 留学から帰ってきた二十八歳の高村光太郎が精神の危機を感じて北海道移住を志し、農商務省研究所を訪ね羊ヶ丘種羊場の研究員になったのは明治44年5月のことでした。詩「声」は、次のように続きます。

 平原に来い
 牛が居る
 馬が居る
 貴様一人や二人の生活には有り余る命の糧が地面から湧いて出る
 透きとほつた空気の味を食べてみろ
 そして静かに人間の生活といふものを考えろ
 すべてを棄てて兎に角石狩の平原に来い

 しかし、「石狩の平原」月寒の現実は、光太郎に「半日働いて半日、絵を書くなどという甘い考えなどは夢にすぎない」ことを教えます。疲れ果てて、移住した月末には東京に帰ってくる有様でした。

 そんな隠退主義に耳をかすな
 牛が居て、馬が居たら、どうするのだ
 用心しろ
 絵に画いた牛や馬は綺麗だが
 生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ
 命の糧は地面からばかり出るのぢやない
 都会の路傍に堆く積んであるのを見ろ
 そして人間の生活といふものを考へる前に
 まづぢと翫味しようと試みろ

 詩「声」は、こんな感じで、田舎の声と都会の声が論争する構造になっています。高村光太郎の内面もこういう状況だったのでしょう。光太郎が智恵子と出会うのは、この帰京から間もなくのことです。智恵子と出会ったのは幸せだったのでしょうか。あるいは、光太郎と出会ったのは智恵子の幸せだったのでしょうか。この詩を読むと、いつも、詮なくもそんなことを考えてしまいます。詩「声」は次のように結ばれます。

 馬鹿
 自ら害ふものよ

 馬鹿
 自ら卑しむるものよ

 こどもだった時、この詩の「北海道」はあまりにも都会人の考える「北海道」なんで、なんか気恥ずかしい以外の気持ちにはなれなかったものですけどね。でも、いつの頃からだろう、ある時、ふっと身のまわりを見渡して、こういう風に超理念的に「田舎」を考える北海道民も東京人ももういなくなっちゃったんだなぁと感じたのでした。「石狩の平原」は、今どこに…