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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の小樽 (二)
 
 

 昭和十一年(1936年)の五月二五日、「北海タイムス」紙に「啄木を英訳 坂西女史上梓」という記事が載ります。坂西しほの顔写真入り。英訳された「一握の砂」も写っています。

 日本研究熱の盛んな欧米人に難関とされてゐる和歌が在米一日本女性の手で続々と英訳され米人学徒の間に嘖々(さくさく)たる好評を博してゐる、ワシントンの議会図書館日本部主任坂西しほ(四〇)さんがその人で、歌集英訳の第一着手は石川啄木の『一握の砂』で第二巻の與謝野晶子集も上梓された、これにつゞいてアララギ派の赤彦、左千夫、茂吉等の英訳に着手全六巻にまとめ『現代日本詩歌叢書』は完成するが出版元はポストンのマーシャル・ジョンズ書店、叢書は四六版で表紙は日本の網代(あじろ)を取り入れた図案で日本趣味の溢れた詩集である
(北海タイムス 1936年5月25日)

 議会図書館は、日本の国立国会図書館にあたる図書館。当時、すでに議会図書館は1万2千冊の日本語文献を所蔵していましたが、日本語のわかる司書がいなかったため、その資料は中国文献部門の書庫に未整理のまま放置されていました。この整理分類のために、英語・日本語に堪能であるばかりではなく、両国の文化に通じる在アメリカ日本人ということで、一躍、坂西しほに白羽の矢が立ったのです。

 翌日のタイムスは、塩谷の坂西家を訪間取材した記事を掲載しています。以下(長いですけれど)全文。

 坂西しほさんは小樽出身 啄木を英訳した女流学者
 日本人以外にはとうていその深奥は理解されぬとまで言はれてゐた日本特有の詩文学三十一文字の和歌 就中(なかんずく)革命歌人石川啄木の文学闘争の記録である「一握の砂」の英訳をデジケートしてひろく米人学徒に“詩人日本”を紹介日本人の詩的精神を認識させたワシントンの議会図書館日本部主任坂西シホさん(四〇)のことは昨報したがはしなくも坂西女史が小樽の出身であることが知れプロレタリア作家小林多喜二を生んだ一方に海外で名をあげてゐる女流英文学者を生んだ小樽の街の誇りは一段とたかめられた、いやそれよりも人一倍女史を誇りとしてゐるのは女史を生んだお父さんとお母さんであらう、二十五日このビッグニュースをもたらして女史の実家である藍谷郡津軽町伍助澤(ごすけざわ)に父傳明さん(七七)を訪ねると庭で草をいぢってゐたがすばらしい愛児の偉業に眼をみはって記者の顔をのぞきこみ「えゝそれやほんとうですかい、御覧のとほりの山家(やまが)で新聞もとってをりませんので何やらさっぱりわかりませんでしたがえらいことをやってくれて嬉し涙がでますわい」
と手の甲で頬にながれる熱いものをぬぐったが野良で働いてゐた長男光さん(四三)の妻トシさん(二六)並ぴに孫シヅさん(三ッ)を駆足で呼んで来て愛児のことをぽつりぽつりと語りだしたがその頬には露の玉が光ってゐた。
「思ひだせばはやいことなのではっきりした記憶もありませんけれど子供の頃からえらい勉強が好きで小学校を出ますと直ぐ静修女学校へ入り出てからはクララ・ローズといふ外人の経営する幼稚園やスタンダード会社の通訳などをやってから横浜に行ったのですが其後のことはとんと分りません」
と梅の樹の下に四人そろってたちカメラに向いた傳明さんは四十年前の明治二十六年横浜から渡道この土地を開拓してゐたもの…拓銀名寄支店へ勤務してゐる五男の約翰(よはね)君(二六)のところへ昨日女史のお母さんイクさん(七〇)が行ったと云ふので電報をうつと光さんは村道を走っていったが傳明さんは神棚に燈明をあげ手をあはせてゐた。
(北海タイムス 1936年5月26日)

 神棚? 坂西傳明はクリスチャンではなかったか…(坂西志保の「しほ」も、マタイ福音書の「地の塩」からとられたものだと聞いていたのだが)

 今年の「小樽啄木忌」の講演講師は、坂西しほ訳以来七十数年の時を隔てて「啄木を英文で詠む」をこの度上梓された荒又重雄氏。なにか不思議な小樽の縁を感じます。暖冬のおかげで水天宮の桜とも見事に満開と重なりそうですし、いい春になりそうですね。

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※ この文章は、北海道科学文化協会よりこの四月に発行された「北海道青少年叢書」第27集、小山心平著「戦後民主主義の指導者 坂西志保小伝」を参考にさせていただきました。