四月の札幌 |
(シュマリ) おれたちは 時代おくれの 遺物だ… のォ 十兵衛 東京では 文明開化だ いや 札幌でも 学校てもんが できとる世に こんなもんを ふりまわす バカが… まだ 生き長らえているってのが ふしぎだな (十兵衛) フフ… さむらいとか 武士道ってやつは… 執念深いのさ… (手塚治虫「シュマリ」) 樺戸集治監(マンガでは札幌集治監)から幌内の太財炭坑に払い出されたシュマリと人斬り十兵衛。炭坑の落盤事故・暴動騒ぎをくぐり抜け、シュマリたちは、妻・お峯とポンションが守っている牧場(当別?)に戻ってきます。その土地に、シュマリを頼って助けを求めてきたアイヌの一行。アイヌたちは和人の盗賊団に追われていた。若葉の四月、盗賊団とシュマリ・十兵衛たちの死闘の末、人斬り十兵衛はここに命を落とすことになる。 手塚治虫はここに面白い仕掛けを一枚加えています。つまり、この「人斬り十兵衛」は「土方歳三」であったのだと。「さむらいとか、武士道ってやつは執念深いのさ…」という科白も、これが歳さまのお言葉となると迫力が一段ちがいます。馬鈴薯を北海道の地にもたらした川田龍吉とも思える人物を描きこんだり、「シュマリ」はストーリーテラーとしての手塚の才能が爆発した作品ですね。 ところで、土方歳三は生きていた!となると、もう一冊、この本を出さずにはいられない。関川夏央&谷口ジローの「西風は白い」。その中に、関川夏央の一文「択捉(エトロフ)の武士」があります。なぜか、これだけが文章。(あの谷口ジローをもってしても、マンガ化は難しかったのか…) 1978年の冬、ワシントン州シアトルに調査のため滞在していた関川夏央は、そこで一冊の本に出逢う。本の名は「溟海北行(ノースバウンド・スルー・ダーク・シー)」。そこには、東京小石川のコーダ邸にて採集したシゲユキ・コーダの談話が記録されていた。 シゲユキ・コーダとは幸田成行。後の幸田露伴。コーダ・シゲユキの兄は、グンジ・シゲタダ。日本帝国海軍の予備役大尉、郡司成忠です。1893年、北の辺境の開発と防備を説いて、部下五十名をひきいて北千島・占守(シムシュ)島の入植を試みたことで有名。幸田成行は、兄から聞いたこの北海行のエピソードとして、このようなことを「溟海北行」の著者に語っています。 郡司大尉らの一行は一八九六年(明治二九)秋、東京湾を出航して以来二十日で択捉島の紗那(シャナ)港に入った。 この小さな港は、日本の夏期のみの漁船基地がおかれ、ほかには千島アイヌの集落があるのみだった。 郡司たちが入港すると、ひとりの男が海岸に立って船を出迎えた。オットセイの皮の上着を着こみ、顔全体が髭に埋もれていて、一見したところ日本人のようには見えなかった。六十歳くらいの老人だったが背筋は真っすぐにのびていた。顔の左半分にやけどのあとがあった。 彼は郡司大尉と面会し、自分を北方行に参加して欲しいと頼んだ。(中略) 日野三郎と名のったその男は、たやすくはあきらめなかった。彼はこういった。 「見かけたところでは、北方の冬を経験したものが貴隊にはあまりに少なすぎるようだ。これではなかなか成功もおぼつかないだろう。(中略)わたしを乗船させれば成功の確率はぐんと増すと思うが、いかがか」 それから日野は唇をゆがめて笑った。目尻のしわが深くなった。 郡司は一瞬、自信に満ちた日野の態度にむかっときたが、彼の言葉のなまりに気をひかれた。それは彼の故郷である東京の言葉にほとんど似ていた。しかし、彼らのそれよりも、かなり古風で、わずかに荒っぽかった。 郡司は日野に尋ねた。 「あなたは剣をつかわれたのではないか。わたしも直参(じきさん)の子だから少しはたしなむ」 日野は再び、唇を歪めた。左半顔は火傷のためにおそろしいが、無事なほうの右側は笑えば、なんともいえない清々しさが浮かぶ。複雑な表情の持主だった。 「むかしのことだ」と日野はいった。「いまは夏は魚をとり、冬は漁師の番小屋を守る老人だから、剣の用などとんとない」 郡司は、ふと思うところがあって、この老人を乗船させてもいいと考え始めた。 (関川夏央「択捉の武士」) 明治の人にとっては、土方歳三が武州日野の人であることは常識。郡司成忠も幸田露伴も、「日野三郎」が土方歳三とはひと言も言ってはいないが、このエピソードをあえてアメリカ人に語った意図は明白なようにも思う… いやー、こちらも、手塚治虫に負けず劣らずのホラ話! 関川夏央、恐るべし! |