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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



三月の後志 (一)
 
 

 話は、「日本書記」、安倍比羅夫(あべのひらふ)まで遡ります。比羅夫の北征は女帝斉明天皇の四、五、六年(658〜660)の三回にわたって行こなわれていますが、問題となるのは、この五年の記述。百八十艘の軍船を率いての北征の際、比羅夫は二人の蝦夷から進言を受けます。「後方羊蹄を以て政所と為す可し」と。比羅夫もこの進言に随って「遂に郡領を置きて帰る」こととなります。
 「後方羊蹄」という地名が歴史上初めて登場した瞬間です。「後方」を「しりへ」」、「羊蹄」を「し」と読んだのは新井白石。以来、この「後方羊蹄」の場所をめぐって大学者たちの論議が飛び交うこととなるのです。昔は林子平や管江真澄などが唱える津軽説が優勢でしたが、その根拠は薄弱でした。
 これに対して真っ向から北海道説を唱えたのが松浦武四郎。アイヌがマッカリヌプリと呼んでいる山。その山は、この地を通った和人たちに、ひと目で富士山を連想させるきわめて印象的な姿ではありました。武四郎は、この山のある地こそ斉明朝の蝦夷地政庁の古址「後方羊蹄」にほかならないと結論したのです。そして、この山こそ、「後方羊蹄山(しりべしやま)」としたいと「丁巳報志利辺津日誌」に記しました。
 「我こそ比羅夫の後裔なり」と信じていた松浦武四郎。彼が丈余の雪とはだをつき刺す酷寒を克服して登撃に成功したのは安政五年二月四日と「後方羊蹄日誌」にあります。(しかし、これはどうやら武四郎のフィクションらしい…)

 天津風胡砂吹き払えしりべしの千代降る雪に照る日影見む
 (京極町・松浦武四郎歌碑)

 明治二年八月、明治政府に北海道の画郡の命名を命ぜられた時、武四郎は、この歌にも詠まれている「しりべし」の名を持つ地域を「後志」国と名づけます。愛する「後方羊蹄」を読みやすくしたのでした。

 初代郵便局長の河合篤叙は、明治四十年ころ後方羊蹄と阿部比羅夫政所の由来を明らかにし“後志地力の中心地は倶知安であり、昔からまつりごと(政治)はここで行なわれた”と力説、三支庁の廃止と、一本にした支庁新設をといたパンフレットを発行、当時札幌で発行していた“北海時事”にも自説をのせて道庁にせまつた。また倶知安ではじめての新聞“新京報”をだしていた山田羊麓(本名実治)も日露戦争と道行政の再検討をむすびつけ“岩内、寿都支庁を廃止し、その中心地である倶知安町に支庁をもうけよ”と新京報に得意の筆をふるつた。
 これに動かされてか、そのころの河島長官が小樽、岩内、寿都三支庁を廃止し、倶知安に支庁を新設することに踏み切つたのはまもなくである。河合らの誘致運動は夢でなく、現実のこととなつて村民の喜こびはたいへんなものだつたろう。
(倶知安町史 1961年版)

 明治四十三年三月一日、倶知安に後志支庁が誕生。「後志」という名の復活です。それまで、小樽、岩内、寿都という名でばらばらに呼ばれていたこの地域は、松浦武四郎の命名以来四十余年の歳月を経て、ここに再浮上したのです。
 
 

 
 



三月の後志 (二)
 
 

 ところで、「しりべし」は、元来「尻別川」の名であったのではないか、と言われています。尻別川の地を「日本書紀」の「後方羊蹄」と考えたのは、新井白石の「蝦夷志」からだといいます。「尻別川」は、「山・川」を意味するアイヌ語「シリ・ベツ」による名称ですが、話はここからさらにややこしくなります。尻別川のそばにある山の中でも、富士山に似た秀麗な山容の「羊蹄山」は、当地を知った倭人にとってはきわめて印象深い山だったに違いありません。それで、尻別川のそばの山ということで、「羊蹄山」が「シリベツ山」と呼ばれ、それが「シリベシ山」と混同され、「後方羊蹄山」と書かれるようになりました。
(羊蹄山麓地域観光ガイド育成テキストブック「ぐるっと羊蹄まちしるべ」より)

 この後、話は本当に「ややこしく」なるのですが、うまくまとめる筆力がないのでここでリタイア。ぜひ「ぐるっと羊蹄まちしるべ」をお読みください。(湧学館も登場しますよ)

 松浦武四郎の命名、「後方羊蹄山(しりべしやま)」。その漢字読み、「こうほうようていざん」。明治20年代の道内各地実測調査の結果、地理学的観点から「マッカリヌプリ」というアイヌ名も使われ出します。(二月に紹介した小林多喜二「東倶知安行」は、この「マッカリヌプリ」を使っていますね。まあ、共産主義者は、死んでも「後方羊蹄」は口にしないだろうが…) さらに、明治38年には蝦夷富士登山会が活動を開始し、ここに、「蝦夷富士(えぞふじ)」という呼び名までもが登場することになりました。すごい混乱。

しかし、入植が進み、後方羊蹄山を「シリベシ山」と読むのは難しいこと、きわめてよく似た音の「尻別岳」が傍らにあったことなどから、結局そのまま音で読んで、略して「ヨウテイザン(羊蹄山)」という名称が一般化したのです。
(同書より)

 軍配は「ようていざん」に上がりました。日本書紀の「羊蹄=し」が、千五百年近くかかって「ようてい」にまで変化したのですね。ああ、長い旅だった!
 十五年前、北海道に戻ってきた私は、それでも、この「羊蹄=し」の読みが不思議でした。なぜ新井白石は「し」と読んだのか? この疑問に答えてくれたのは植物学者の牧野富太郎博士です。
牧野富太郎は、「羊蹄」とは「ギシギシ(スカンポ)」という草の漢名で、それを日本では単に「シ」と言うのでこのような用字になったと著しています。この用字は、万葉集や源氏物語にもあるそうで…

 頂上は 京極町だよ 羊蹄山 (オークの会編「京極かるた」)

(今回は、安倍比羅夫から牧野富太郎まで、ピックネームの大連発でちょっと疲れました。津田左右吉や深田久弥というフットパス、あるいは、余市の比羅夫碑というフットパスもあったのですが、深入りは健康に悪いので端折りました。「京極かるた」の一枚に心和みます…)