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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



二月の京極 (一)
 
 

 窓を開けさえすれぱ、マツカリヌプリが魔物のように眼をさえぎって聲えているこの置き忘られた――雪にうずもれている蝦夷の一寒村に、我々の運動が、こんなにも大きな真剣さで行われているのかと思うと、私はじッくりと眼に涙がにじみ出てくる感激を覚えた。
(小林多喜二「東倶知安行」)

 「マッカリヌプリ」とは「羊蹄山」。なぜ、小樽の小林多喜二が、羊蹄山麓の一寒村にいるのか?
 多喜二は、小樽高商(現小樽商大)卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務します。まごうことなきエリート街道への切符を手にしながら、多喜二の内面では文学を通じた社会変革の道を模索しはじめていたのでした。そして、その発火点となった「一九二八年」。
 1928年(昭和3年)2月20日の第16回衆議院議員総選挙。これは、1925年(大正15年)に公布された普通選挙法に基づく日本最初の総選挙でした。別名「第1回普通選挙」。この時、多喜二は、北海道一区から立候補した山本懸蔵の選挙運動を手伝いに羊蹄山麓の東倶知安村に応援演説に行きます。この東倶知安村は、後の京極村。現在の京極町です。今でも、京極には、この選挙演説会の舞台となったお寺(光寿寺)が残っています。その会場で、多喜二は不思議な老人を目にします。

 ――老人には酔うと、何処でゞも直ぐ持ち出す「癖」が一つあった。
「俺は幸徳秋水を知ってるんだ。――幸徳はねえ、何時でも巻煙草をこんな風にくわえて、ナア水沢、お前寒くないかッて云ったもんだよ。俺が何時でも貧相で、カサ/\していたもんだからさ。」
(同書より)

 十八の時から、そして七十になろうとする今でも、もはや半ば耳も聞こえず目も見えぬ老人が、だまって置けばいくらでも応援演説をやめようとしない… その姿に、多喜二は「人の魂を直接に打つものを感じた」のです。

私のような」小悧口な人間は(私はかくさず云おう、実際この老人の前で何んの嘘が云えよう。)この何時目鼻がつくか分らない「何代がかり」の運動を、恐らくそう効目も見えず、又恐らく誰もそう高く「認め」てもくれないこんな所で――しかも、こんなに大きな犠牲を払ってやって行ける本当の気持をもっているだろうか。
 ――お前はレーニンのように「あがめられたい」と思っているのだ。
 ――お前はたゞ無産階級運動の「大立物」になりたいためばかりに一生ケン命なのだ。
 ――お前は一生の間こうして一生ケン命になって、自分がそのまゝ埋もれ、しかもこの運動が一寸目鼻もわからないとしたら、とっくの昔に裏切ってしまっていたのだ。
 ――お前は中央に出て行って「認め」られたいためにしている。この運動が東京だけで出来るとでも思っているように。
 そうでないとは云わせない。お前の心の何処かゞそればかり望んでいたのだ。
 私は自状しよう。――私は、そうだった!
(同書より)

 日本のインテリ左翼の「原点」的な感情をかなり正直に吐露してことが興味深く、長くなりましたが引用させていただきました。
 
 

 
 



二月の京極 (二)
 
 

 客車は北海道の支線によくあるマッチ箱のような小さい、入ロが両側に幾つも取付けてある型で、真中に円い西瓜のようなストーヴ一つきりだった。それに電燈が煤けたように薄暗く、時々消えそうになったりした。向かいあっている人とでも、耳の後に掌をかざさないと聞えない程、汽車がガタガタ音がし、思わず身体をすくめる程揺れることがあった。
(小林多喜二「東倶知安行」)

 多喜二たちが乗っているのは、京極軽便線(東倶知安線)。1918年(大正8年)11月の開通で、倶知安〜東倶知安(京極)間を走っていました。多喜二たちが選挙応援に来た1928年(昭和3年)の11月には東倶知安〜喜茂別間をつなぐ私鉄胆振鉄道も開通し、徐々に、太平洋側と日本海側をつなぐ胆振縦貫鉄道(後の胆振線)の姿が露わになってきます。その、胆振線のきっかけともなった「京極軽便線」の様子を描写している点でも「東倶知安行」は興味深い。
 「東倶知安行」は、どうしても、往きの、大吹雪をついて馬そりで演説会場に向かう場面が有名(北海道的?)なのですが、帰り道の京極軽便線風景も、読み込んでみるとなかなかに味わい深い。例の、「幸徳」老人も乗っていることですし…

 ところで、「京極軽便線」に関しては、もう一人、沼田流人の名を挙げねばなりません。

 「私」は周旋屋の手で売りとばされ、まる3日の旅ののち「××××町」に着いた。その町は「高原の小都会なのだが、高い死火山の蔭の、日の光もよくあたらないような薄暗い街」であった。そこから9マイル(約14.5km)を護送されて、北海道のある支線のトンネルエ事現場に連れて行かれた。「私」たちはタコと呼ばれていた。
 工事現場には、監視者がつきっきりであった。監視者は棒頭とよばれていた。人夫等はその姿や格好で、さそり、くも、ブルドッグ、ふくろうなどとよんだ。誰もがその名のように残忍であった。仕事はトンネルの中の土掘り、断崖の切りくずし、トロッコによる土運びであった。1日14時間の労働で誰もが疲れきっていた。
 そんななかで逃亡者が出た。監視者たちはなぐって血みどろになり動けなくなったその男を、むしろに入れてどこかに運んでいった。脚気になる者、トリ目になる者、神経痛になる者が出た。自殺者や過労で死ぬ人がいた。病死者も出た。警察は巡視に来ても、監視者の味方でしかなかった。
 冬が襲ってきた。雪の中の仕事は20幾人かを凍傷にした。そうなってはじめて部屋は解散となった。人夫等の手には、20銭銀貨1枚だけがのせられた。病にむしばまれている者が多かった。彼等は夏支度のボロを着て、雪の曝野に出ていった。
 「私」は陶器絵師といわれている男と、雪の中にさまよい出て、気を失って倒れてしまう。1時間後雪から掘り出されたとき、陶器絵師は冷たい屍になっていた。「私」は5か月後かろうじて健康をとりもどすことができた。
(追補京極町史/武井静夫「胆振線略史」より)

 私のピント外れの引用よりは、武井静夫氏の的確な要約の方がわかりやすいと考え、「追補京極町史」所収の論文「胆振線略史」より、小説「地獄」のあらすじ部分を引用させていただきました。この、沼田流人の「地獄」の舞台となっているのが京極軽便線の「軽川ずい道」です。
 倶知安町・6号線で祖父の営む木賃宿を手伝っていた二十歳の沼田青年は、鉄道工事を目のあたりに見、宿泊に来た客たちから監獄部屋(タコ部屋)の惨状を聞きました。沼田は流人の名で小説を書き始め、大正15年9月の雑誌「改造」に小説「地獄」の発表に至ります。

 奇しくも、二人のプロレタリア作家によって書き残された「京極軽便線」。そもそも「京極」という名の由来が、この辺り一帯の大農場主であった子爵・京極高徳の名に由来することを知る時、なにかこれらの人間模様が北海道開拓史の一断面を鋭く顕していると感じるのです。