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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



一月の小樽
 
 

留守宅では花園町畑十四、星川丑七方へうつつたさうだから、何卒行つて『其面影』をとつてくれ給へ。
(啄木/明治41年1月30日釧路より 藤田武治、高田治作宛書簡)

 年がかわっても、まだ「バカ王子」への憤りがおさまらない。啄木をバカ呼ばわりするのなら、ついでに、母・カツのことも、そう呼んであげたらどうだろうか。

 啄木の留守宅は階下の部屋に、母堂や節子夫人と京子さんの三人がこじんまりと住んでいた。母堂がとても喜んで若い私たちに応対されて、啄木のことをハジメが、ハジメがと名呼びにして、盛岡中学校時代に同窓の仲間が始終訪ねて来て、夜遅くまで話したり議論したりしていたこと、子供のころから同志のものと何か企画すると、必ずその中心になって騒ぐことが好きでといった調子の一人息子を思う愛情が、年少の私にもよく受け取られ、恁うした親子が離れ住む寂しさに同情せずにおられなかった。
(高田紅果「在りし日の啄木」/啄木の留守宅)

 母・カツと節子のちがいについて、『忘れな草―啄木の女性たち』の著者・山下多恵子氏は、「つまり、カツは<石川一>を愛し、節子は<石川啄木>を愛したのである」とこれ以上はなく的確に記している。(小樽の「バカ王子」論者たちとの、なんたる品性・知性のちがい!)

 母堂が節子さんに言いつけて、盛岡で啄木が刊行した『小天地』を探し出させて、一部宛記念に貰った。田舎で印刷したにしては,仲なか垢抜けした感じのいい文芸雑誌であった。この小天地を見て節子夫人が閨秀歌人であること、その作品が女性らしい、慎ましい歌の幾首かによって啄木の婦人だと、さらに認識を新たにしたものである。老母の世話や愛児のことに逐われて、髪など大抵束ね髪にして、顔に下がってくると、その都度掻きあげるようにしながら、世帯の苦労に悴れて見える節子さんの、疲れた顔容は私たちをして気の毒に堪えぬ思いに誘われて、何時も強い同情なしに彼女に対する事が出来なかった。
(高田紅果/同書より)

 小樽の節子の悲惨を訳知り顔に語りたい人間は、釧路の啄木の行状だけではなく、岩見沢の義兄・山本千三郎宅に居候しているカツにも注意をそそぐべき。(こんなの、啄木研究のイロハです…) 例えば、釧路から函館へ戻った明治四十一年四月。啄木は妻子を引き取りに小樽へ戻ります。

「節子さんと京ちゃんはうちで当分責任をもつ。君は一人身になって東京へ行って、今度こそ文学をやるべきだ」と郁雨にいわれて、啄木は言葉に托せない感情、言えば嘘のまじる感謝の念をこのときだけはしたたかに知った。郁雨に妻子を托す期間を「二、三ヵ月」と言ったのは、啄木の嘘やごまかしではなく願望であったとみるべきであろう。この話がかわされたのは四月九日。啄木はいきさつをこまかく書いて小樽の節子と岩見沢の義兄山本干三郎へ送った。啄木一人がまず上京して生活基盤をつくる。それまで妻子は宮崎家の庇護のもとで函館に暮らすことに話はついた。一日も早く東京へ家族をよぶ努力をするから、それまでは母を預ってほしい――。それが義兄への願いであった。(中略)
 郁雨の好意を土台にして、やっと新生活の計画をたてたばかりというのに、家へつくとすぐ障害が鼻のさきにつきたっていた。義兄の山本宅で手紙を読んだカツが、前日のうちに小樽へ帰ってきていたのである。幾つになっても臍の緒をつないで生きているような親子関係にある啄木は、母の主張の前に一言もなかった。
「一月や二月、北海道へ残ってくれというのはいいが、節子と別々というのなら私は反対だ。節子と別れていれば、節子を東京へ呼ぶときに私は取り残されるにちがいないもの」
(澤地久枝「石川節子―愛の永遠を信じたく候」)