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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十二月の小樽(一)
 
 

 花園町の荒物屋の路地の啄木住所は棟の低い平屋でしかない小じんまりした建物であったが、我々にとっては広壮な芸術の殿堂を仰ぐような、畏敬と憧憬の対象であった。処がどうした訳か屋根の一端、路地に面した片隅の処に、小さな函形をした豆腐屋の看板がぶら下がっていたのである。
 私はそれを見る度に、甚だしく憤慨した。わが詩人に対し世間の俗物達の無理解と冒涜を怒るのである。全く侮辱を感ぜざるを得なかった。考えてみれば若々しい、線香花火のような、興奮に過ぎなかったのだ。そうした興奮に怒りを発した気持ち、子供らしい喜怒の情を思い回す自分ながら苦笑を禁じ得ないのであった。
(高田紅果「在りし日の啄木」より)

 今でも小樽は「豆腐屋の看板」からそんなに進歩したわけではないようだ。「バカ王子」人形飾って喜んでる人たちを見ていると、百一年前、啄木をせせら笑っていた人間たちの心根が透けて見えるようで、その下品さにいたたまれない気持ちになる。

 小樽日報には歌壇が設けられた。啄木がその選をしていた。私は熱心に歌を投じたものである。「小樽はどうも歌をやる人は尠ないね」と度々言ったことを私は記憶する。今にして想い廻らすと、私たちにそう言って嘆いた気持ちが、後年上京後の作歌に、北海道放浪時代を回顧して『かなしきは小樽の町よ歌ふことなき人人……』が出来たことと思われる。
(同書より)

 やはり「かなしきは…」は「歌ふことなき」悲しい小樽を詠った歌なのではないか…と一瞬心が揺らぐ。その「かなしきは…」も入った「一握の砂」が東雲堂書店から刊行されたのが、北海道漂泊から二年後の明治四十三年十二月二日。