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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



十一月の後志
 
 

 明治三十年代の失敗で、すつかりコリた水稲の試作を、人に笑われながら黙々と続けている人があつた。山陰移住会社解散(明治三十九年)のあとを引きついだ青木利一である。青木は附近の人の嘲笑をよそに、明治四十年、自分の農場内に五ヘクタールの水稲試作地をつくり、ポンクドサン川の水を利用して水稲の試作をはじめた。はじめの年は失敗したが、必らず米はできるという自信をもつた青木は、これにへこたれずに米づくりをつづけた。
(「倶知安町史」1961年版より)

 北海道に移住してきた明治の人たちが始めた農業には、大きな特徴が二つあるように思います。ひとつは、寒冷地への適応をめぐる模索、努力。そして、もうひとつは、この模索とは裏腹な、「米」への断ち切りがたい想いです。官は早々と水稲試作をあきらめ、寒冷地に適した品種の輸入、お雇い外国人による新農法の導入に路線を転換してゆくのですが、移住してきた人たちの心には、どこかに稲作のDNAが残っていたとしか思えない。同じ「倶知安町史」の1951年版は、こう語っています。

 之(明治三十年代の失敗)に依て見るも本町水田作が如何に一般に困難視されて居たかが判る、然るに当時本道の水田熱は全道を風靡し空知、上川地方を中心として既成水田地たる札幌、雨龍方面も亦水田の造成が行われ其の他各地に於ても造田の報伝わり其の刺戟を受け本村も亦各方面に水田試作をなす者続出したのは僅かその一年後の明治四十二年であつた。

 青木利一の努力が稔るのは大正2年。農会試作圃に村の有志を集め、皆で初めての「倶知安米」の味をかみしめたそうです。青木農場があった、現在の倶知安町・瑞穂に「米が稔った郷」の碑が建てられたのは、昭和48年の11月3日。
 
 


“史跡明示碑”を建立
峠下(縄文、無土器文化)と米作発祥地
【倶知安】 町教委は峠下の遺跡と、町内で初めて米作に成功した瑞穂地区のニカ所に史跡明示碑を建立したが、その除幕式が二日現地でをそれぞれ行われた。
 町教委は町内各所にある遺跡や記念物、開拓時代の記念すべき地域など、町の歴史的な資料となるものの所在を明示して町民の認識を深めようと、昨年町文化財保護調査委員会(上野留蔵会長)に諮問して七カ所を選ぴ、毎年ニカ所ずつ建立することにし、昨年は町有形文化財第一号の天井画のある大仏寺と戸長役場出張所跡のニカ所に建てている。
 今回明示碑を建てた峠下の遺跡は峠下小から西北約三百メートルの台地にあり、三十三年同校の児童が石器を発見したのをきっかけに名取元北大助教授らが縄文文化、無土器文化時代の遺跡として確認されている。
 碑は峠下小校庭に建てられたが碑は町内産の高さ約二メートルの自然石で、吉田町長揮ごうの「峠下遺跡」文字と説明版がはめ込まれている。
 また町の米作発祥の地の明示碑は瑞穂克雪センター敷地内に建てられたが、この碑も町内産の高さ約二メートルの自然石。吉田町長揮ごうの「米が稔った郷」の文字と説明文をはめこんでいる。
 ここは明治四十三年(一九一〇年)に岐阜県出身の故青木利一さんがポンクドサン川から水を引いて水稲栽培に初めて成功したところ。
 除幕式には吉田町長や町議会、町文化財保護調査委員会の関係者、地元住民が参加して行われ、立派な碑の建立と町の発展を祝い合った。
(北海道新聞 昭和48年11月5日 小樽・後志欄)