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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



九月の小樽
 
 
 

◎本年四月十四日、北海道小樽で逢つたのが、野口君と予との最後の会合となつた。其時野口君は、明日小樽を引払つて札幌に行き、月の末頃には必ず帰京の途に就くとの事で、大分元気がよかつた。
(石川啄木「悲しき思出―野口雨情君の北海道時代」)

 北海道一年間の漂泊を切りあげて東京に戻った石川啄木。金田一京助の下宿・赤心館に転がり込んだものの、目論んでいた小説が売れず生活が行き詰まります。で、今度も金田一の厚意で本郷の蓋平館に移ることができ、ホッと一息つけたのが明治四十一年九月の六日。そんな啄木が野口雨情の計報に接したのが九月十九日のことでした。読売新聞に雨情の記事が載ったのです。

 読売新聞で、野口雨情君が札幌で客死した旨を報じた。口語詩人としての君の作物の価値は、僕は知らぬ。然し予は昨年九月札幌で初めて知つて以来、共に小樽日報に入り、或る計画を共にした。…
(啄木「明治四十一年日誌」/九月十九日)

 なにか想いがこみ上げてきたのでしょうか。日記なのに、後の「悲しき思出」とも重なる内容が書き始められていますね。すぐに稿を改めて「悲しき思出−野口雨情君の北海道時代」の執筆へ。
 しかし、これは原稿九枚ばかり書いたところで中断となります。二十二日、啄木は友人の人見東明から、雨情が健在であるとの連絡を受けたのです。

 ペンを投じて、うなつた。野口君は生きてゐるのだ。誤伝も事によりけりで、これは奇抜も通り越した話だ。それにしても先づ先づ安心。…
(啄木「明治四十一年日誌」/九月二十二日)

 人見東明からの連絡がもう少し遅れていれば、あるいは、啄木は「悲しき思出」を書き上げていたかもしれません。そうであれば、小樽日報時代の「或る計画」のことももう少し明らかになったかもしれないと思うこともあり、少し残念な気持ちもあります。(ま、人の不幸につけ込むのはよくないか…)