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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



八月の小樽
 
 
 

 安政四年、旧暦の七月から八月にかけて知別(シリベツ)川をめぐる和人とアイヌ四人の一行がありました。和人の名は松浦武四郎。後方羊蹄(シリベシ)山の麓に発する知別川の水源を確かめようとしています。

 私はこの五月にこの川(尻別川)の水源地の場所を確かめるために、三日程かかって川をさか上ってみたみたけれども、どうしても先に進むことが出来ずにしまった。
 それで岩内から再度この方面をめざして陸行したが、このときも氷雪をつき、草やいばらを分けての行程で、上流の宗付=ソウツケ=まで行って、融雪のため地面が泥濘になっていて、羊蹄登山は諦めねばならなかった。そのときは羊蹄山の東側から登山する予定であった。またその水源も川が雪どけ水に溢れていて、行くことが出来ず失敗に終わった。
(「オビラメの会」HP/松浦武四郎「後方羊蹄日誌」より)

 そこで、武四郎は、安政四年七月二六日、今度は反対側東海岸の虻田(アブタ)から知別川をめざします。アイヌ四人を雇い路参(ルサン=留産)まで行き、ここでアイヌたちに丸木舟を作らせました。舟を二人のアイヌに川の両岸から曳き舟させて川を上り、八月二日、ついに一行はこの川の水源まで行き着くことができたのです。

 以前は間宮(林蔵)近藤(重蔵)最上(徳内)の三氏もこの地に入り、やはりこの川の水源を窮めようとされたらしいが不成功に終わっている。それ程にここは北海道でも有数の険しい山岳地帯である。 (同書より)

 得意満面の武四郎の息づかいが伝わってくるような「後方羊蹄日誌」の記述ではあります。まさに、松浦武四郎こそは、江戸時代のガンダルフ。そして、今年は松浦武四郎死して百二十年。
 

参考1 松浦武四郎の地理関係を知りたい人のために夢のようなHPがあります。 これ です。
道庁HP>農政部>農村振興局と進むと「松浦武四郎が見た北海道の姿」というページがあって、なんと!武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図」がデジタル復刻されているのです。
そして、これが後志関連の拡大図
「チライヘツ」「キモウヘツ」「ルウサン」「ワッカタサ」「ヌプリカンヘツ」「クッシャン」… 後志人には涙ものの地名の連続。何時間でもプリントアウトをながめる毎日です。

参考2 「オビラメの会」の正式名称は「尻別川の未来を考えるオビラメの会」。北海道尻別川に生息する「南限のイトウ」保護に取り組むNGOとのこと。HP
そこの「尻別川について」というページに、丸山道子編・現代語訳の松浦武四郎「後方羊蹄日誌」(凍土社,1973年)から「知別」部分が掲載されています。
今回の文章は、ほとんどこのHPがあったからこそできた文章でした。お礼申し上げます。

参考3 今回の文章に盛り込むことはできませんでしたが、とても興味深い「松浦武四郎」HPを見つけました。ここです。
凄いですね。北海道中に溢れかえっている「松浦武四郎」関連の碑や像を訪ね歩くなんて、ある意味、「道の駅」全駅制覇より難しいんじゃないだろうか。(もしかしたら、碑や像の数、啄木より多いかもしれません。しかも全道隅々に散らばっているし…) 武四郎の碑や像が建つということは、そこを武四郎が歩いたということですからね。松浦武四郎が歩いていない北海道なんてないんじゃないだろうか…

参考4 佐江衆一著「北海道人―松浦武四郎」(新人物往来社,1999)

参考5 上に掲げた写真は、京極町にある松浦武四郎歌碑。歌は「天津風胡砂吹き払えしりべしの千代降る雪に照る日影見む」。揮毫が町村金吾というのも吃驚。