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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



七月の小樽 (一)
 
 
 

 トンネルをすぎると、姉妹は急いで窓をあけた。もうすぐ右手に、山の中の発電所がみえるのだ。
 レールの下の下の切りたった崖も、その下方を青々と流れる川も、川の向うの緑の山々も、二人においでおいでをしているようだ。やがて、小山の裾が切れると、段々ならびの社宅の屋根が、次には三本の黒い鉄管とその下の赤煉瓦の発電所があらわれた。
「父さあーん」
「母さあーん」
(畔柳二美「姉妹(きょうだい)」より「帰郷」)

 ふるさとの川の名は「尻別川」。川の向こうの緑の山々とは「ニセコアンヌプリ」の連山。そして、赤煉瓦の発電所は、畔柳二美の父・弥次郎が勤める王子製紙株式会社尻別第一発電所です。この発電所の建設着工からかかわってきた弥次郎は、大正九年、妻のサキはじめ五人の子どもたちをこの川のほとりの狩太村(現ニセコ町)に呼び寄せたのでした。この時、二美、八歳。物心ついた時には、溢れかえるほどのニセコの緑や光につつまれていたのです。
 引用した「帰郷」の場面は、札幌の北海高等女学校(現札幌大谷高等学校)が夏休みになり、姉のヤイと一緒に狩太に帰省してくる場面です。まもなく、狩太駅。発電所の社宅では、父や母や兄弟たちもハンカチをふっています。

 畔柳二美の少女時代の狩太では、もうひとつ大事なことが起こっています。それは、有島農場の解放。大正十一年の、奇しくも七月、有島武郎は、農場内にある弥照(いやてる)神社に小作人たちを集めて、無償解放の宣言を行ったのです。
 有島農場は、尻別川を挟んで、発電所の真向かい。二美は狩太尋常高等小学校の五年でした。後年、畔柳二美は、このように書いています。「有島農場の解放は、私の狩太時代における最大のできごとといっていいでしょう。 <中略> 有島農場の解放農家を他の小作たちと比較することでいろいろな農民の悲哀をいやというほど知らされました。」

 尻別川は、大自然の恵みだけではなく、いろいろなものを少女に教えます。