六月の小樽 (二) |
多喜二が高商卒業して、その年の三月から拓銀に勤めることになった。わだしらは銀行なんて、一生縁のない所だと思っていたども、多喜二が勤めたということで、末松つぁんと二人で、一度だけ拓銀の前に行ってみた。六月だったべか、暑い日だった。石造りの立派な建物に、二人ともびっくらこいて、 「へえー」 「へえー」 というばかり。あん時、末松つぁん喜んだ。 「もう一生、多喜二は食うのに心配はない。寄らば大樹の陰だ、寄らば大樹の陰だ」 って、くり返し言っていた。 (三浦綾子「母」) (「六月の小樽」には、当初、こちらの題材を予定していたのですが、いっこうに筆が進みませんでした。かといって、来年の六月まで寝かせておくほどの記事でもないので、「六月の小樽」は二本立て興業になります。) 若竹の三星パン屋。潮見台小学校。小さな頃、家の近くにあった「タコ部屋」の思い出。そして、拓銀。小林多喜二の青春。 それでも二人は、一週間に一ぺんは会っていたようだった。タミちゃんから、銀行の多喜二んところに電話があって、今夜はひまだってわかると、二人で稲穂町の町角で落ち合っていた。うん、たいてい大黒屋呉服店の角だって。そして二人で、花園町の「蛇の目鮨」で鮨ば食べて、小樽公園をぶらついて、何だかだと話して、十時四十分の終列車で、若竹町の家さ帰ってたもんだ。ま、時には活動写真を見に行ったらしい。 (同上) こういうなんでもないような描写も、小樽の地図が心の中にある人には、まるで昔見た映画の一場面のように活き活きと回想されるのでしょうね。 |