六月の小樽 (一) |
(今月も「宮沢賢治」話題です。六月を外すと、また一年待たなければいけないので…) 宮沢賢治の「春と修羅」に「雲とはんのき」という詩があります。青空文庫より引用してみます。こんな詩です。 (ひのきのひらめく六月に おまへが刻んだその線は やがてどんな重荷になつて おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない) 手宮文字です 手宮文字です 驚くべきことに、「手宮文字」という言葉が出てきます。これはもちろん小樽の手宮洞窟の線描のことでしょうね。当時は古代文字だと考えられていました。(不勉強なもので、小樽でこの「手宮文字」の詩句に反応した人を知りませんので少し自信は揺らいでいるのですけど…)「手宮文字」といえば、あの「手宮文字」しかないでしょう。 そう踏まえた上で、詩の中の「ひのきのひらめく六月」とは何か、「おまへが刻んだその線」とは何か、「男らしい償ひ」とは何か?に想いをめぐらせます。宮沢賢治の「六月」。それは、前年十一月の妹とし子の死の衝撃からなかなか立ちなおれなく、詩でいえば「風林」とか「白い鳥」とか、暗く沈んだ詩を書いていた頃。あのかなしくも美しい「オホーツク挽歌」詩群を生み出すことになる八月のオホーツク・樺太への旅には今少し間がありました。 一千九百二十三年の とし子はやさしく眼をみひらいて 透明薔薇の身熱から 青い林をかんがへてゐる フアゴツトの声が前方にし Funeral March があやしくいままたはじまりだす (噴火湾) 「Funeral March」。つまり、「葬送行進曲」。妹とし子を想ってオホーツクや樺太を彷徨った宮沢賢治の心の底に鳴っていた音が、「雲とはんのき」でも鳴っているのがわかります。括弧の中を賢治の内面の声と考えれば、「おまへ」とは宮沢賢治にほかならない。そんな「おまへ」が「刻んだその線」。そして、外面の「わたくし」。なぜ「わたくし」は「たつたひとり」で「南の方へ石灰岩のいい層を/さがしに行かなければ」ならないのか。なぜ「手宮文字です」の行が、「わたくし」の行より一段下げて書かれるのか。 いろいろなことを想わせる美しい詩「雲とはんのき」の「手宮文字」については、「宮澤賢治の詩の世界」サイトの「『雲とはんのき』の手宮文字(1) (2)」論文がおそろしく緻密で知的興奮に満ちた分析を展開されています。たいへん勉強になりました。 |