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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



五月の小樽
 
 
 

 明治43年(1910年)5月19日、およそ76年周期で地球に近づくハレー彗星が、この時、最接近となりました。
 この年、宮沢賢治の永遠の友「カンパネルラ」としても有名な保阪嘉内は甲府中学校に入学します。この甲府中学で出会ったのが、当時英語教師として赴任していた野尻抱影。抱影は大正元年3月までの約6年間にわたって甲府中学に在職していましたから、嘉内は一、二年生の時期に野尻の教えを受けたことになります。まさに、ハレー彗星は、ドンピシャのタイミングでその姿を現したのでした。
 嘉内の中学時代のスケッチブックには、そのハレー彗星を描いた絵があります。薬師岳から駒ヶ岳に向かって長い尾を引いて飛んでいくハレー彗星。そして、驚くべきは、そのキャプション。「銀漢ヲ行ク彗星ハ/夜行列車ノ様ニニテ/遙カ虚空ニ消エニケリ」。
 その日、宮沢賢治の盛岡は曇りでした。賢治はハレー彗星を見ることができなかったのです。ですから、賢治のハレー彗星イメージは、その後盛岡高等農林の学生寮で同室となる保阪嘉内から伝えられたものと考えられます。彗星は「夜行列車ノ様ニニテ…」と。つまり、「銀河鉄道」の誕生です。

 宮沢賢治が花巻農学校の修学旅行生を引き連れて小樽を訪れたのは、ハレー彗星から14年後の大正13年(1924年)5月20日。嘉内に「どこまでも一緒に行こう」と国柱会(日蓮宗団体)への入会を嘉内に迫り、上野の帝国図書館で嘉内との最後の別れをしてしまった若き日の宮沢賢治の面影はすでにありません。賢治の人生の中ではいちばん力が漲り、そして、落ち着いていた時期ではないでしょうか。
 でも、その影には、生涯に独りの友と離れた悲しみのようなものがいまだに流れていることを感ぜずにはいられません。そして、ふたたび、とし子への鎮魂の旅(青森挽歌〜オホーツク挽歌)と同じ函館本線の車上の人となった宮沢賢治。その修学旅行復命書は明るくきちんとした報告なのに、なぜか私には、それが明るいが故にかなしい気持ちになることがあります。賢治が農学校の教師を辞めて、嘉内と同じ百姓の道に入って行ったのは翌年のことでした。