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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



四月の小樽
 
 
 
 明治33年、有島武郎、22歳。札幌農学校(後の北海道大学)の学生でした。この年の4月にちょっとした変化が起こります。それは、武郎の父・有島武が、武郎の妹の夫・山本直良の名義で北海道のマッカリベツブト原野の貸下げを申請したことでした。「マッカリベツブト」は、後の「狩太村」。現在の「ニセコ町」です。つまり、「カインの末裔」や「親子」など有島文学の大きな舞台となった「有島農場」の誕生が、この明治33年の4月なのでした。
 札幌農学校を卒業した有島武郎は、それから約五年間にも及ぶアメリカ留学に旅立ちます。日本に戻ってきたのは明治40年の4月。29歳でした。夏には、両親とともに札幌や狩太の農場を訪れたりしています。翌年には東北帝国大学農科大学(札幌農学校の昇格改称)の教授となり、有島武郎の本格的な札幌居住時代が始まった頃でした。そして、明治43年4月には、「白樺」の創刊。ですから、有島武郎の「白樺」同人参加は、札幌からの同人参加ということになりますね。

 ところで、明治40〜41年というのは、21歳の青年・石川啄木が北海道を漂泊していた年でもあります。だから、両者は時々北海道の中で接近(?)しているんですね。例えば、明治40年。8月に農場視察に訪れた有島一家に遅れること一ヶ月、9月には函館を焼け出された啄木が札幌に入ります。また、明治41年の4月、釧路を脱出して函館に舞い戻った啄木ですが、妻子を引き取るために一週間ほど小樽に滞在してもいるのです。この時、有島は農科大学の教授。大学の学生寮・恵迪(けいてき)寮に舎監として住んでいました。
 有島武郎の未完の小説「星座」は自らが札幌農学校の学生だった頃(明治30年代)の学生群像を描いていると思われますが、舞台装置としては明治41年の「恵迪寮」体験が使われているような感じもします。そうだとしたら、それは、啄木の小説「札幌」が描いている明治40年9月の札幌に、じつに近い時期の札幌ということになりますね。
 数え27歳という若さで死んでしまった啄木。漱石や鴎外や一葉と並んで「明治」の文学をある意味代表する存在なので、大正時代の白樺派との接点といわれても何も思いつくものはありませんが、雑誌「白樺」を実質的に担っていた学習院出の若者たちと、じつは、何も変わらない同年齢の青年だったというのは少しばかりショックではありました。