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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



三月の小樽
 
 
 
 昔、私が埼玉の学校図書館に勤め始めた頃、東京では「病院図書館」という試みが始まっていました。後年、「病院患者図書館」(出版ニュース社,2001)という名著にまとめられることとなる菊池佑氏の実践報告に毎回心躍らせていたものです。
 病院図書館の何に心惹かれたのか、今となってはうまく説明できないのですが、菊池氏の論文の一節に、日本で最初の病院図書館が小樽市立病院の「ふきのとう文庫」であることが書かれており、北海道出身者としては、その「小樽」という響きにちょっと誇らしい気持ちを持っていたのは確かです。

 その「ふきのとう文庫」が終わったのが一昨年(2006年)の三月。
 理由は、
小樽市の行政無策のあおりと言ってもいいでしょう。2008年の現在でも「新病院建設」迷走や赤字累積を続けている小樽市立病院ですが、問題化の波は十年前あたりからじわじわと押しよせていたのです。その市立病院の問題から目を逸らし、巨大商業施設「マイカル」の甘い夢に酔いしれていた市行政のツケが小樽市民までまわってきたとしかいいようがない。
 特に「マイカル」撤退後は、その深刻さが市民の目にも露骨に見えるようになってきました。それを象徴するものが、例えば、この「ふきのとう文庫」の終焉です。小児科医師2人を派遣している北大医学部から
2006年度の常勤医派遣中止を伝える文書が届いたのでした。市立病院は常勤医確保は難しいと判断、出張医の派遣要請に切り換えました。
 この結果、平日の外来診療は確保されましたが、
2006年度四月からの入院治療はできなくなりました。四月からは小児科病棟に入院する子どもの姿は消えるのです。そして、病床の子どもがいなくなった以上、もう「ふきのとう文庫」には存続の余地はありませんでした。日本の病院図書館第一号という輝かしい歴史を持つ「ふきのとう文庫」もまた小樽市立病院を去ることになったのです。

 雪解けの三月、新病院の行方もご破算になった市立病院の前を通ると、「ふきのとう文庫」や「院内学級」の表示が残っていた二階の様子を懐かしく思い出します。
 長い引用になりますが、かつての小樽には、こんなにも頑張っていた大人も子どもたちもいたのだということをどこかに書き記しておきたく、
市立小樽病院量徳小学校院内学級担任・野戸廣美氏の文章の一部を引用させていただきます。(また、「小樽新報」コーナーに当時私の書いた記事を復刻しました)
 
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小樽市立病院
市立小樽病院量徳小学校院内学級担任 野戸廣美
 
「先生、文庫の時間だね。」
と、学級の子がいいます。木曜日の十一時です。
 院内学級の行事予定黒板には、忘れずに板書しているのですが、待ちかねている子ども達が、先に文庫のことを言い出します。
「そうだったね。では、勉強は終わりにして文庫をはじめよう。宣伝をたのむよ。」
 すると、病院に返本を取りに行きながら、他の病室にも声をかけてくれます。
 本棚の上から白い箱をおろします。貸出簿と、赤黒のボールペンを取出して待ち構えます。
「これだけ、借りたんだった?」
「おもしろくて、一日で読んじゃった。」
「まだ、こんな本ないの。」
「前にも借りたけど、また、読んでみるかな。」
 にぎやかな会話が、飛び交います。
 おずおずとやって来た子が、
「ぼくも、借りていいかい。」
と、小さな声で語りかけます。
「いらっしゃいませ。どなたさまもお客さま。お客さまは神様です。神様、どうぞ借りていって下さい。」
と、つい冗談が出て呼び込みをはじめます。
「おそくなって、すみません。」
 回診にぶつかってしまった子が、本をかかえて、十一時二十分の終了間近にやってきます。
 
(「ふきのとう文庫だより」No.9/1977.5.10)