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かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
 
 



二月の小樽
 
 
 
 豊浜トンネルの事故から12年。1996年2月10日、朝の午前8時すぎ、古平町側(積丹半島側)の坑口付近で、推計高さ70メートル、重さ2万7千トンの岩盤が崩落。トンネル内を走行中だった北海道中央バスの積丹町余別発小樽駅前行き路線バスと、後続の乗用車の2台が直撃を受け、20名全員が死亡。

 岩盤除去作業の模様は昼夜を問わずテレビで全国中継されました。発生直後から全国中継されたのには理由があります。テレビ放送局のクルーは東京から駆けつけてきたのではありません。札幌から来たのです。被災者の中に「札幌雪まつり」見物に行く親子連れが含まれていたことからもわかる通り、全国中継のフル機材を持った東京の放送スタッフがすでに札幌に来ていたのでした。クルーは急きょ事故現場へ。札幌から余市町までは車で約2時間程度。
 トンネル内は多数の瓦礫に塞がれ、閉じ込められた車の様子は確認できませんでした。さらに、巨大なまま上部に残留している岩盤を除去しない限りは再崩落の危険もあり、内部に入ることができません。岩盤を発破により海側へ滑らせて除去する方法を決定。ただ、内部にいる人が生存している可能性も考慮し、岩盤除去に使用する爆薬の量は制限されたのです。
 生存の可能性! 事故当初、コメントに出た北大教授は「数万トンの岩盤のG(落下重力)に加えて、走行車両の時速何十キロまでもの力がかかったのですよ。中学生の物理でもわかることではないでしょうか」と冷静に発言。以後、この教授がテレビに出てくることは二度とありませんでした。
 テレビは「生存の可能性」を信じて中継を続けます。11日より14日にかけて4回にわたる発破作業。当時はオウム真理教の摘発が連日テレビを賑わしていた時でした。ワイドショーのオウム・ウォッチャーや弁護士やらが「あの二度目の発破が…」などと東京のヌクヌクしたスタジオで語っている様は、滑稽を通り越して、私のような、被災者の家族でも関係者でもない者ですらちょっと怒りをおぼえるものではありました。二度目の発破の際、崩れた岩に「人面」が見えるとはしゃいでいたバカといい、マスコミの残酷さを垣間見た一瞬です。