北斗/賢治
大正15年(1926年) 8月13日
違星北斗 「日記」
八月十三日 金曜日
今夜教会に行って岡村さんが札幌に行かれたと聞く。聞けば幼稚園の事ださうだ。それなら前にお話してあるから同じ事だ。それとも後藤先生が他から何か聞いて、それを此方に訊きたくて呼ばれたのか知ら? 何にしても此の幼稚園は此の村に無くてはならぬものの一つであるから、どうぞ岡村先生がよいお便りを齎して下さる様に祈って止まない。
此の村に無くてはならぬものの一つ
平取に入って、そろそろ一ヶ月が過ぎようとしている北斗。現地に入った直後の、ジョン・バチラー、バチラー八重子、向井山雄など、教会当事者たちへの感嘆も落ち着き、東京からのエール(後藤静香、中山氏、冨谷氏)もひととおり終わりして、8月11日の日記に登場する「有馬氏」「橋本氏」のように、平取の、北斗の日常の近辺にいたであろう人たちの姿が描かれ始めます。今日の「岡村先生」も、そんなひとりでしょうか。
違星北斗が日記のなかで、岡村先生と記しているのは、当時、平取聖公会の岡村国夫伝導師のことである。同師の千代子夫人(八重子の妹)は同園の保母として奉仕していた。同園はその後、種々継続のための努力が重ねられたが、経営は徐々に困難になり、昭和四年(一九二九)三月、ついに閉鎖せざるを得なくなった。
(仁多見巌『異境の使徒―英人ジョン・バチラー伝』/第二章「第二の故郷札幌時代」「平取幼稚園と違星北斗」より)
山本さんの違星北斗大辞典《人名編》によりますと、「有馬氏」は北海道大学初代医学部付属病院長の有馬英二博士ではないかとのこと。「橋本氏」は北斗がいた頃の二風谷の村医です。北斗の日記に「岡村先生」の名がたびたび登場するのは、北斗も直接に関係していたバチラー幼稚園について、岡村神父が経営の苦しい同園のことで色々と動いていた担当者であったからと思います。
バチラーは宣教師退職の前年の大正十一年(一九二二)、東京希望社の後藤静香(社会事業家)の援助で、平取聖公会の敷地内に幼稚園を設立した。同園はアイヌ・和人児童が一緒に学び、当初は三十一人が在籍。夏は二十五人、冬は十八人が平均出席数であった。この幼稚園は保育料を払えないアイヌがかなりいたので、経営はピンチであった。この幼稚園の仕事を手伝っていた余市生まれの、八重子の歌友で八重子を姉のように慕っていた違星北斗は遺歌文集「コタン」(昭和五年希望社出版部)のなかに、彼の生前の苦渋に満ちた幼稚園の存廃問題にふれた日記を載せている。
(仁多見巌『異境の使徒―英人ジョン・バチラー伝』/同章より)
そう、北斗はいろいろ悩んでいるのです。どうしたらバチラー幼稚園の経営を安定させられるか… バチラー八重子が言った「此の村で欲しいもの――浴場と図書館」を真に受けて考える北斗。岡村先生の「欲しいもの――自転車」発言にまで、「せめて浴場ならば…」と考えてみる北斗が私は好きです。前の文章で、浴場はちょっと金がかかる…と自分で書いたばかりなのに、すぐに「せめて浴場ならば…」などと思考が空回りする。
八重子の言った「浴場と図書館」の内、結局、北斗に理解できたのは「浴場一つ」だと思います。「図書館」はたぶん理解できなかっただろう。(「図書館」などと言い出すバチラー八重子の能天気もずいぶんなものだと私は思うが…) でも、思考が「浴場一つ」で単純化した北斗だからこそ、
平取に浴場一つ欲しいもの
金があったら建てたいものを
という美しい歌が生まれた。「林檎」というアイデアが生まれた。誰も、こんな北斗を笑えないと、私は思いますよ。
ただ、「若いなぁ」という感想はある。というより、なんで北斗はここにいるのか…という最終的な疑問がある。バチラー幼稚園のことをいろいろ考えてくれる気持ちはありがたいが、八重子にしても、岡村先生にしても、北斗がここで何をしたいのか、なぜここにいるのか?ということは最後はわからなかったような気がします。そして、北斗自身も、なぜここ平取なのか?は徐々にわからなくなってきているような気がします。
何かしたい、何か役立ちたい…でも、その何かがよくわからない…、そんな感情が渦巻いているところが少しばかり「若いなぁ」という感想になります。宮沢賢治なら、もう、そこは通り過ぎてしまった時代ではあります。
かねてより、私は、平取時代の北斗の消息を伝える資料が極端に少ないことをとても不思議に思っていました。バチラー八重子でも金成マツでも、毎日北斗と接していたはずなのに、なぜ当時の北斗のことを書かないのだろう。長生きの部類に入る人たちなのに、なぜ思い出のひとつもないのだろうか。この時代の北斗を描いた文章は、多かれ少なかれ、
昭和二年(1927)七月、違星北斗がしばし平取に足をとめている。この漂泊流浪の歌人は、痛み・ガッチャキ(痔)の売薬の行商をしたり、土工や鰊場で働きながら、歌を詠みつづけ、わずか二十九歳で、薄幸多感な生命を燃えつくしたが、平取コタンで、つかのまの平和を楽しんでいる。彼はこのとき、バチラーをはじめ、八重子・山雄姉弟、岡村国夫・千代子(八重子の末妹)夫婦に会い、登別では知里高吉・ナミ夫婦を訪ね、また幌別海岸では、真志保や八重子と歌を詠むなど、同族と親しみ、温い友情にふれている。おそらく彼の短い生涯における、最後の充実した、また幸せなひとときだったろう。
(掛川源一郎「バチラー八重子の生涯」/18「平取教会」,「病める漂泊の歌人」より)
といった、北斗日記からの引用を大きく出るものではありません。あるいは、「吉田ハナ」からの聞き書きでしょうか。
薄幸のアイヌ歌人、偉(ママ)星北斗は、昭和二年、平取教会に来て、八重子を知った。
北斗は、八重子とともに、しばらくのあいだ、教会に起居している。北斗は、八重子やハナさんと共に養蚕などを手がけて、コタンの生活に新風を吹き込もうと努力したのであった。
「その頃の八重子さんは、本当によく働きましたよ。毎朝、早く山に登って、馴れない手つきで桑を摘み、背中にしょって教会まで歩いてくるのです。マユを売った代金は、バチラー先生のもとに送っていたようでした。夜中、おそくまで何やかやと、いろんなことを話し合いましたが、語れば語るほど、あまりにもウタリがみじめすぎて、わたしたちは、手を取りあって泣いたこともございました。」
しかし、北斗や八重子が、ウタリのためにと思って為したことも、すべて徒労に終った。北斗は二ヶ月にも満たない滞在で、余市にもどっている。北斗、二十五歳のことである。
(中略)
「北斗さんについて、よく人に聞かれますけれど、わたし、あの人のことは、あまりわかりませんのよ……平取にお出での頃は、二十四、五才でしてね、八重子さんは四十才を越していたでしょうか。北斗さんは、バチラー先生や八重子さんを尊敬しておられて、ウタリの向上を願う気持ちにも変わりはなかったのですが、あの人は、キリスト教では、ウタリを救うことはできない……といつも言っていましたから、その事では、八重子さんやわたしとは、意見がくい違ったこともあったのです。でも、なにぶんにも、遠い日のことでしてね、あの人のことは、はっきり覚えておりませんの……(後略)
(末武綾子『バチラー八重子抄』「六章 平取にて」より/「違星北斗.com」からの引用)
かろうじて、同年代だった吉田ハナの記憶に残る北斗。しかし、この「かいこ」の話だって、別の本の「吉田ハナ談」では、まるっきり最初から「違星青年」は抜け落ちてしまっている。
ここでふたたび吉田ハナさんに、八重子の平取時代の思い出を聞くとしよう。
――八重子さん、岡村国夫先生と私、それに諏訪野ナツ(振内町荷負コタンで手芸や裁縫を教えていた。ナツの姉春子は有珠に住み、八重子の女友だちだった)の四人で、かいこを飼った。蚕室はブライアント先生が前に住んでいた家を使った。
馴れぬ仕事で骨が折れたが、四人とも懸命に働いた。毎日山へ行ってヤマグワの実を食べながら、葉を摘んで背負ってきた。マユは茄でて、タバコ輸送用の木函に詰めた。
その頃、二風谷にマユの大きな乾燥場があったので、そこまで四キロの山道を大八車に積んで四人、力を合わせて運んだ。岡村先生が着物の裾をはしょって、ながえを曳き、女たちがあと押しをした。仕事はきつかったが、これもウタリのためだと思うと楽しかった。
当時は道庁で養蚕を奨励し、札幌の農務課でマユを集荷していた。マユを売ったお金はバチラー学園の経営の足しにと、八重子さんの手で、バチラー先生のもとに送金していた。
私は毎晩、牧師館をたずねて、八重子さんと遅くまで話し合った。ウタリだけが、時代からとり残されて、貧しく、みじめな目にあっている。こんなつらい、かなしいことはない。いったいウタリは、これからさきどうなるのだろう、と手をとり合って泣いた。
(掛川源一郎「バチラー八重子の生涯」/18「平取教会」,「かいこを飼う」より)
寂しい。まさしく「今頃は北斗は何処に居るだろう」という気分です。
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