啄木在住時代の思出
 
高田 紅果
 

 私が啄木に初めて逢ったのは、 明治四十年の秋、 十一月の初め頃であった。 書簡集によると、 函館の宮崎郁雨氏が丁度旭川の砲兵隊へ勤務演習に召集されて、 行ってゐるのに宛てた消息中に「今朝、 初雪、 紅葉と雪のダンダラ染めは美しい。 窓外霙の声あり。 二十六日夜十一時」 といふのは、 十月二十六日を指すのであろう。 九月も押し迫った月末に創刊される小樽日報社へ札幌から赴任して来られてから、 凡そ一月半程経ってからの事であらう。初冬の雪に街が美しく化粧された。然し北国の人々が初雪前後に感ずる物悲しい空気を、あの花園町の路次へ歩み入らうとして感じた陰惨な気持ちは、 今でもなを去年の様に想い出されるのである。
 当時の私は秀才文壇とか文章世界とかを貪り読む一少年だった。 歌や詩の持つ美しさに酔されて、 何といふことなく限り無い愉悦を文学に抱いてゐる、 所謂文学青年だったのである。
 詩人といふ畏敬すべき人種に、 生れてはじめて逢ふので、 心の中に憧憬と好奇と危惧との念が混って、 名状し難い状態であった。逢ふ迄がとても億劫で心配で仕様が無かった。さゝやかな平家造りの普通の借家ではあったが、 然し棟割長屋では無かった、 玄関の入口は二枚の硝子戸が立ってゐる、 踏み込むと一坪程の板張りの土間でその片隅に 炭の俵が口を開けた儘で置いてあったり、 突き当たりのお勝手との仕切りには障子がまだ立てゝなかった様に思はれる。 土間の左側に六畳のお茶の間があって、その茶の間に炉の前に、 啄木は木綿の紋付の羽織を着て座ってゐた。 五分刈りにした坊主頭で、 色白の頬は若々しい子供らしい感じを与えた。 おでこの広い前額とその下の円な眼とは、 何とも云へぬ人懐かしさを少年の私にも感じさせるに充分だった。
詩人といふものは、 頭髪を長く伸ばし、 憂欝な顔つきをして、 何時も冥想にでも耽ってゐるのであらうと、 想像してゐたに反して少し自分達より年上の青年だったことに愕き、 ちっともわだかまりのない話ぶり、 元気のいい、いかにも溌刺とした調子に、 すっかり私も同化されて、 初対面のギコチない窮屈さなどは感ぜずに、 話し合ふことが出来た。

 悲しきは小樽の町よ歌ふこと
 無きひとびとの声のあらさよ  (注@)
啄木の見た小樽。 ある一面のわれ等の郷土を此一首の歌に巧みに表現してゐると思はれる。彼の在住時代啄木を繞る人々は僅かに彼が職を奉じた、 日報社の記者仲間に過ぎなかった。然かもその新聞社は、 何処にもある様に社内に二つの勢力の葛闘が暗流を為して居った様であるから、 真に彼を知り理解し合った仲間といふものは極ゝ少数の人々であったらしい。然かも在社僅か二三ヶ月で、 退社して釧路新聞社に赴任することになったから、 土地の青年とか関係者に対する知己も少数であったに違ひない。 放浪詩人の彼、 旅人の彼が見た其頃の小樽は正に此歌で表現されてゐると思はれる。 歌ふこと無き人々は、 利欲の世界、 打算の世界にのみ溌剌と活躍してゐる人々である。 こうした人士の世界では、 啄木の如きロマンチストは、 全く異邦人であり、 不生産的な一個の隠れたジヤナリストであったに過ぎぬ。
 当時からすればさっぱり栄えない一個の新聞人(素人の)眼が、 小樽人の気のつかぬ点を巧みにも把握してゐる処に、 彼の主観の鋭さを見、 彼の感受性の強さを覗ひ得ると思ふ。
 然るに芥川龍之介は小樽を一瞥した感想の中に(起重機(クレーン))が小樽の港を釣り上げやうとして ゐると観てゐる。こうした観方も面白いと思ふが。 芥川は通りすがりの旅人として築港附近の路上で汽車の窓からのぞいた外面的な感想を驚句的に述べたのであった。 其処へゆくと啄木はこの小樽で米や味噌を買ひ、 月給を貰って、 妻や子や親を養って、 仮令短時日の間にせよ世帯の苦労をしながら小樽人となってゐた。 小樽の空気の中に浸り切りながら、 小樽人になり切れぬ悩みが彼からは離れなかったと、 私は見てゐるのである。 努めて小樽を知り理解せうと努めてゐた事は次の記事で覗はれる。
   初めて見たる小樽
札幌と小樽との比較論
初めて北海道趣味を味った札幌の町 大原野の一角 木立の中の家疎らに、 広き街路の草生 牛啼き、 馬走る。 自然も人間も何処となく鷹揚で暢然として、 街路を行くも、 内地の都会風のさゝこましい歩き振りをせぬ、 秋風が朝から晩まで吹いて、 見聞きする処凡てが大いなる田舎町の趣きをとってゐる、 しめやかな恋の沢山ありさうな都、 詩人の住むべき都と思って、 予は限りなく喜んだ。 然し札幌にたらぬものは男らしい活動である。 二週にして札幌を去り小樽に来た。 初めて新開地らしい真に植民的精神に溢れた、 男らしい活動を見た。 男らしい活動が風を起す、 その風たるや即ち自由の空気である。 小樽人の歩みは、 路上の落し物を拾うよりは、 更にもっと大きな物を拾はふとする。 四辺の風物に圧せらるゝには、 余りに反撥心の強い活動力をもってゐる。 歩くのでない、 突貫するのである。 日本の兵隊は最後の突貫でかつ―――朝から晩まで突貫する小樽人ほど恐るべきものは無い。日本一の悪路、 ――改善と不必要な整頓、 階級と習慣の死法則を嫌ふ。 特色は執着心のないの無い小樽人――
 小樽のかたみ――参照
小樽日報社奉職と新聞記者としての、 初めて記者らしき待遇を受け、 得意の境地に置かれた啄木の最初の新聞、 創刊号から携はった日報との交渉は、 ヂヤナリストとしての彼の生涯にとっても意味深い、 印象の強き思出でゝあったに相違ない。 切抜帳にも丹念に彼は自分の執筆記事を抜いて置いた。 釧路新聞では初からさうした 細心な行為をへてゐなかった様である。 周囲がまた彼に時間を与へなかったことも一面然らしむのであらうか。
酒席、 痛飲、 乱酔、 ――表面的存在が彼を一層新聞人として働かせ、 動かした。
婦人会に於ける演説―― 文士劇之出演等。
卓上一枝を釧路新聞に書いてから以後の彼の思想は一転機を示してゐる様だ。 個人主義思想から来た、 英雄崇拝的意識――天才意識が影を薄めて、 凡人主義的大衆的傾向がだん/〃\濃厚になって来たことが覗はれる。 当時の文学上の自然主義思想が、 強く彼に影響したと見るべきてあらう。
  革命を愛のごとくに恃みし
     明治末期の歌人あはれ     信行
 紅苜蓿(注A)同人松岡蕗堂(野の人)来樽―ワンプライスショップ(松井氏)住ノ江町の素人下宿吉野白村――池上芳男等
 三人のコムミニスト編中の最も左傾的反起として啄木を繞る人々に描かれてゐる。
 松本某は清一君と称し。 宮古の産、 県立水産学校出身で、 道庁の植民課に務めたことがあった俊敏不撓の好漢であった。



 高田治作氏所持啄木関係
 図書及資料目録

一、図書
 一握の砂 変形四六判 290p 明43.12.1 初版 y0.60 東雲堂
 啄木遺稿 四六判   436p 大 2.5.25 初版 y0.90 東雲堂
 悲しき玩具 四六判  136p 大 1.9.8  初版 y0.50 東雲堂
 我等の一団と彼 変形三六判 124p 大 5.5.11 初版 y0.35
   東雲堂 (生活と芸術双書第六編)
 文章世界 第六巻四号 四六判  明44.2.25 y0.20 博文館

一、絵はかき
 詩人故石川啄木の碑記念エハカキ

一、書翰
 明治四十一年五月十五日 啄木より 藤田高田両氏宛
 明治四十一年九月九日  啄木より 藤田高田両氏宛

一、写真
 啄木       大正三年二月十五日
 北村(橘)智恵子 大正十一年十月一日
 高田紅果、松本清一、藤田南洋 明治四十二年十月二十日



本篇昭和九年三月十九日高田氏ガ小樽市郷土研究会−需ニヨリ本館楼上ニ於テ講演セル原稿ヲ写セルモノナリ
同氏ハ昭和十一年八月十一日「私ノ見タ啄木」ノ題ニテ本館ニテ講演セラル
    昭和十二年一月九日記
 
 

 

《解説》 本編は市立小樽図書館が所蔵する高田治作述「啄木在住時代の思出」を翻刻活字化したものである。図書館のつけた発行年が昭和9年(1934年)になっているので、「昭和九年三月十九日」「小樽市郷土研究会」の高田紅果講演原稿を市立小樽図書館が書写したものと思われる。市立小樽図書館のネームが入った原稿用紙にペン書き9枚を製本化したもの。
注@ 石川啄木歌集「一握の砂」中の「かなしきは…」とは記述が異なるが、高田紅果はこのように理解していたという意味で記述をそのままにした。
注A 前後の関係からここには「苜蓿」の文字が入ると思われるので「苜蓿」としたが、実際には「苜蓿」とはちがった字が書かれているようにも見える。

 
 
 

 前列ステッキを持っているのが小樽啄木会初代会長高田紅果氏。右は二代目会長越崎宗一氏。そのとなりは宮崎郁雨の弟宮崎顧平氏。(当時北海製罐取締役で小樽在住) その他は当時の啄木会会員が大半である。(昭和20年代の啄木忌)