三月二十一日


 

 春季皇霊祭。休み。

 十一時半起きる。顔を洗つて来て、煙草をのんで居ると、鹿嶋屋のてるちやんが来た。二十歳になるといふのに、丈こそは高いが十五六の子供の様だ。社の広岡が遊びに来た。一時間許りゐて帰る。てるちやんも帰る。鈴木の店から持つて来た写真の額を市子へやる。

 間もなく社の工場の者が二人来た。厄介だから大気焔を吐いてヘコませる。ヘコませる積りだつたのが、的がはづれて、却つて面白がつて夜になるまで居た。

 一日の籠城、怎やら気が済まぬと、九時頃横山を伴れて鶤寅に進軍。水を持つて来さしたコツプで飲まうとすると、妓小奴銚子を控へて大いに酔ふことを許さぬ。自分には飲ませずに人の盃をとつて飲んで居た。

 十二時が打つて弾迎へ。にならぬうちに、奴は先に出て門で待つて居て送つて行くからとて坐を辷つた。程なく辞して出ると、奴は其家からコートを着て提灯を持つて出て来た。満街の雪を照して月は水の如く明るい。

 酔が大分廻つて居てフラフラする。奴の温い手にとられて帰つて来て、室に入ると火もあり、湯も沸つて居る。横山と奴と三人で茶を飲んだ。

 兎角して一時となつた。“石川さん、”といふ声が窓の下から聞える。然も女の声だ。窓を開けば、真昼の如き月色の中に梅川が立つて居る。“お客様がありますか”“あります”“誰方?”此時奴は梅川と聞いて、入れろと云ふ。“お這入りなさい。”

 月は明くても、夜の一時は夜の一時である。女の身として、今頃何処をどう歩いて来たものか一向合点がいかぬ。入口の戸をトントンと叩いて室に入つた顔を見て驚いた。何といふ顔だらう。髪は乱れて、目は吊つて、色は物凄くも蒼ざめて、やつれ様ツたらない。まるで五六日も下痢をした後か、無理酒の醒めぎはか、さらずば強姦でもされたと云つた様の顔色だ。這入つて来て、明い燈火に眩しさうにしたが、“あまり窓が明かつたもんだから、遂……”と挨拶をする。“これは梅川さん、これは私の妹”と紹介すると、“おや貴女は小奴さんで”と女は挨拶。顔を上げた時、唯一雫、唯の一雫ではあつたが、涙が梅川の目に光つた。

 横山と二人で、頻りに目で語つて見たが、一向要領を得ぬ。今時分、若い女が唯一人、怎して歩いて居たのだらう。それは、よしや此女の性格として、有りうべからざる事で無いにしても、今時分下宿屋に居る男を訪問するとは何事だ。且つそれ其顔色は、と幾何疑つても少しも解らぬ。唯、今夜は此女の上に何かしら大事件があつたのだナと云ふだけが、明瞭に想像せられる。

 梅川は殆んど何も云はなかつた。唯時々寂しく笑ふては、うつむいて雑誌などをまさぐつて居た。一時が二時となり、三時になつた。それでも帰らうとせぬ。奴も亦帰らうとせぬ。ハハア、根気競べをして居るのだナと思つて、自分は奴と目を見合して笑つた。

 夜が闃として、人は皆鼾のモナカなのに、相対して語る四人の心々。鶏の声が遠近に響いて暁が刻々に近いて来る。

 遂に四時になつた。懐に右手を入れて考へ込んで居た梅川は、此時遂々“どうも晩くまで失礼しました”と云つて帰つて行つた。“私の方が勝つた”と奴は無邪気に云つて笑つた。“勝つ筈ですワ、お呪符を二つやりましたもの。”

 見れば、小さい箆甲の髪差を逆さにさして居て、モ一つは、蹴出しの端を結んで居た。これを以て客を帰す呪符だと、我が無邪気な妹は信じて居る!

 “私が勝つたんだから、これを貰つてつても好いでせう”と奴は云つた。梅川が拵へて来た一輪の紅の薔薇の花は、かくて奴の物となつた。五分許りして奴も亦独り帰つて行つた。

 奴の帰つた時、自分は云ひ知れぬ満足を感じて、微笑を禁じ得なかつた。冷えきつた茶を飲み干して自分は枕についた。

 が、が、暫しは眠れなかつた。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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