三月十八日


 

 今日は出社。面白い事もない。四時頃小南君と伴なつて帰宿。

 隣りの横山君の室に三尺の声がする。十分許りして帰つた様子。横山が来ての報告によると、態々呼びつけて今後此下宿に訪ねぬ様忠告してやつたとの事。七時頃一寸外出。

 三尺は必ず梅川に寄つて行つたに違ひない。何と云つたらうといふので、横山から梅川へ手紙やつた。今行きますといふ返事。軈て来た。泣いて居る。涙がとめどもなく流れる。何といふても泣いて居る。此女も泣くのかと思つた。

 漸々にして解つた事は、三尺が帰りに寄つて“今後石川さんに途中で逢つても言葉もかけぬから御安心なさい”と云つて行つた事。上杉君が先刻来て、三尺の事を云つた時、何か気に障る言を発したとかで、アトで口惜くて口惜くて、一人人の居ない診察所に入つて声を放つて泣いた事、そこへ衣川子が来て親切な言を以て慰めた事。そして頻りに泣く。横山も自分も、殆んど持余した。

 泥酔した声が下に聞えて、グデングデンになった永戸と刑事の三浦がやつて来た。永戸は是非今夜一つ飲まして呉れと云ふ。何と恁う人間といふものは浅間しいものだらうと、自分は上愉快でたまらなかつた。永戸一人なら剣突を喰はしてやるが、三浦が来てゐるので、仕方なく、アトで行くからとて二人を梅本楼へやつた。迎ひが来た。又来た。十一時半漸く行つて見ると、二人共マルで獣の如く見える。芸者小梅も獣、半玉雛子の声は鰹食つた猫の様だ。

 十二時出た。路次の雪に倒れた三浦を永戸に任して、月明らかなる真砂町を帰る。ぽんたが客を送つて来るのに出会して、気の毒な思ひをした。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

1