三月十七日


 

 十二時起床。何とはなく上快で今日も休む。灰神楽に逢つた鉄瓶の尻みたいな顔をして、永戸が一寸来て行つた。

 夕刻、日景君が衣川子と共に来た。一緒に晩餐を認める。与謝野氏の手紙と“明星”が社に来て居たといふから、女中をやつて取寄せる。今月の応募歌題“瓶”の撰者を事後承諾で僕にして居る。手紙には、自然主義が大体から見て文壇の一進歩だと書いてある。

 梅川が、小さい花瓶に赤いリボンを結べて、燃ゆる様な造花の薔薇一輪をさしたのを持つて来た。日景君が散々椰楡する。

 日景君は自分の初恋の話をした。失恋といふ事は、恁麼男の性格まで変へるのかと思ふ。軈て帰つて行つて、佐藤と梅川残る。

 二人が帰るといふので、門口まで送ると、戸外には霜かと冴ゆる月の影、ウツカリ下駄をつツかけて出た。心地がよい。誰の発議ともなく、復、此間の晩の浜へ行つた。汐が引いて居て砂が氷つて居る。海は矢張静かだ。月は明るい。氷れる砂の上を歩いて知人岬の下の方まで行くと、千鳥が啼いた。生れて初めて千鳥を聞いた。千鳥! 千鳥! 月影が鳴くのか、千鳥の声が照るのか! 頻りに鳴く。彼処でも此方でも鳴く。氷れる砂の上に三人の影法師は黒かつた。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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