三月十三日


 

 三尺事件には弱つて了ふた。吊詮自称、背の極めて低い、庇髪の、獣の如き餓ゑたる目をした女で、東京に行つて居つたといふのが自慢。歌留多を種によく男を訪ねる。今迄にもをかしな噂に上つた事一度や二度ではない。その三尺女史が今自分を繁々訪問するとは何の事だ。訪問するだけならまだよい、臆面もなく梅川その他の人に向つて僕に対して云々といふ心中を打明けるとは抑何事だ。

 夜、梅川が来た。横山と二人で応接する。結局此第三者二人に全権を委任して、一度だけ三尺を連れてくる事、其時巧く芝居をやつて将来寄せつけぬ様にする事と議一決。

 梅川は十一時頃まで居た。そして色々な話をして行つた。年は二十四、背の高くない、思切つて前に出した庇髪を結つて、敗けぬ気の目に輝く、常に紫を含んだ衣朊を着てゐる、何方かと云へば珍らしいお転婆の、男を男と思はぬ程ハシヤイダ女である。其語る所によると、――女の母は釧路に、父は函館に、或事情からして別れて居る。母と頑固な伯父が、ズツト以前にきめて置いた許嫁があつた。函館に居た時、父も亦或熊本生れの軍医と許嫁にした。とある夏、女は母が大病といふ電報で釧路に呼び帰されたが、大病な筈の母が波止場に出迎へて居た。本人は進まなかつたが、許嫁との縁談が漸く熟して、先づ毎日其家に行つて居る事になつた。朝に行つて夕方に帰る。然し本人は当時脚気で熊本に行つて居る軍医がなつかしくて、当の男は厭であつた。熊本から正式に申込書が来た時は、然し乍ら、断つてやつたさうな。既にして男は、女の友達なる或女と関係を結んだ。ソレが却つて当時の自分に嬉しかつたと女は云ふ。(無論これは負惜みだ。)やがて此縁は切れて、或女は此女と位置を代へた。日露の戦役が起つて、予備中尉なる男は従軍した。そして間もなく旅順で戦死した。此戦死も毫も心を動かさなかつたと女がいふ。女は東京に出た。そして造花を習つた。当時熊本生れの軍医は東京に居て、妻もあり、子もあつた。訪ねて行くと、其妻君は実に実に親切な人で、宛然妹の如く遇してくれた。それを喜んだのは此方の弱い所、嬉しいと思つて時々訪ねるうちに、細君は段々変つて来た。著しく変つて来た。女といふものは怎して恁麼ものでせうと梅川は嘆じた。茲に於て、女の東京に居るべき根本の理由がなくなつた。残骸の如き女は、恨みを呑んで函館に帰つた(昨年四月?)。そして造花の先生をして居たが、火事に逢つて釧路に帰つて、上京前にも居た事があつたから再び笠井病院に入つたといふ。

 此女は、嘗て何処がで見た女だと思つて考へた。そして漸々解つた。去年の七八月の頃、函館に居で、或夕方友と共に、――確か白村君と翡翠君?――公園に杖を曳いた。通りぬけて谷地頭に行つて、また公園に来て、運動場に来ると、一群の小供らと共に、ブランコに乗つて居た、誰が見てもお転婆と見える一人の女があつた。其女は此女であつた。実に此女であつたのだ。

 現実修飾の悲哀を、(と自分は看た、)此女は感じて居る。男を男と思はぬ様な、ハシヤイダ、お転婆な点は、閲歴境遇が逆説的に作り上げた此女の表面の性格である。然し、二十四にして独身なる此女は、矢張二十四で独身な女である。心の底の底は、常に淋しい、常に冷たい。誰かしら真に温かい同情を寄せてくれる人もと、常に悶えて居る。自ら歎き人を欺いてるだけ、どちかと云へば危険な女である。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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