二月二十九日


 

 昨日来た日高の大嶋君の手紙を繰返して読む。下下方小学校の代用教員とは何の事だ。噫、自から人生の淋しき影をのみ追ふ人、自から日の照る路を避けて苔青き蔭路を辿る人! 大嶋君は怎して斯ういふ人だらうと、自分は悲しさに堪へぬ。去年の七月末、風もなく日の照る日の事だ、函館の桟橋で白い小倉の洋朊を着た君の、背をそむけて去る後姿を見送つた時の光景が目に浮ぶ。

 盛岡の師範学校に居る千葉春松君から、其作を浄書した“十三絃”の一葉と、謄写版刷の雑誌“満潮”一部に、丁重なる手紙を添えて送つて来た。何といふ事はない、自分は無性に七八年前の白羊会時代が恋しくなつた。上来方の古城の跡の蔦の葉が見たくなつた。アノ内丸の時の鐘の、蒼古の声が聴きたくなつた。

 岩見沢の姉からも手紙が来た、光子は病気で小樽に行つて居るといふ。

 社へ行つてから、遠藤君から十二円八十銭送つて来た。宮崎君の為替も受取らした。五時〆切つて帰る。途中方々の払を済し、松屋の佐々木君から自分の“あこがれ”一部没収して来た。

 今月自分の手に集散した金は総計八十七円八十銭、

 釧路へ来て茲に四十日。新聞の為には随分尽して居るものの、本を手にした事は一度もない。此月の雑誌など、来た儘でまだ手をも触れぬ。生れて初めて、酒に親しむ事だけは覚えた。盃二つで赤くなつた自分が、僅か四十日の間に一人前飲める程になつた。芸者といふ者に近づいて見たのも生れて以来此釧路が初めてだ。之を思ふと、何といふ事はなく心に淋しい影がさす。

 然しこれも上可抗力である。兎も角も此短時日の間に釧路で自分を知らぬ人は一人もなくなつた。自分は、釧路に於ける新聞記者として着々何の障礙なしに成功して居る。噫、石川啄木は釧路人から立派な新聞記者と思はれ、旗亭に放歌して芸者共にもて囃されて、夜は三時に寝て、朝は十時に起きる。

 一切の仮面を剥ぎ去つた人生の現実は、然し乍ら之に尽きて居るのだ。

 石川啄木!!!

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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