一月十五日


 

 十一時頃、実相寺一二三の脳病面が来たので起される。自分は此男の顔を見るとイヤになる。好な煙草もうまくない。マルで上調和な卑い人相だ。

 斎藤君が来て、明日函館へ行つて一週間許り居てくるといふ。函館にも総選挙の準備として内山代議士が新聞を起す計画があるさうな。

 斎藤君が帰ると、奥村君が来た。本田君が来た。野口雨晴君が久振りで来た。本田君は別れのつもりで蜜柑をドツサリ買つて来た。野口君は天下の形勢日に非なりだから、東京へ帰るつもりでそれぞれ手紙を出したといふ。見ると着て居る着物はマルで垢だらけ、髯も生え次第になつて居る。自分は何とも云へぬ同情の念を起した。此人の一生も誠に哀れなものである。

 奥村君と二人で真栄町のちか子さんが許へ出かけた。途中で西村君に逢つた。相上変気味の悪い団栗眼をギロギロさして、旭川の新聞から来いと云ふが、怎しようかと思つて居ると云つて居た。無論これも嘘だ。昨日佐田君の話によると、信善屋へ人を以て脅迫を試み、三十円貰はうとしたのも此西村君だとやら。然し世の中を茶にして過さうと云ふ人間は、此男だけでもあるまい。新聞社会には実際イヤな分子が多い。

 芝居橋を渡った時は、既に四周が仄暗い位であつた。(居るだらうか?)(居るだらうか!)と同じ事を云ひ乍ら右へ曲つて、突当りの、川に臨んだ家が乃ちちか子さんの寓だ。居るか居ないか半信半疑で案内を乞ふと、直ぐ美しい淑やかな声に迎へられる。すぐ上る。洋燈はまだつけて居ない。

(石川君から残らず聞かされて居りますが、怎も此度はお芽出度い事で。)と、奥村は武張つて丁重な挨拶をすると、薄暗い中にもしるきちか子さんの慌て様。

(アノ、)と、つつましやかに云つて、自分の顔をジツと見たが、(其事でムいますね、……是前には貴所に那麼お返事を申上げましたけれど、あとで考へて見ますと、怎も余り軽卒な事をしたと、大変後悔して居るのでムいます。それで、今夜でもお伺ひして申上様かと存じて居つたのでムいますが、アレは何卒お取消して頂きたいのでムます。真個に恁麼事申上げるのは、誠に済みませんけれども、何卒さうお願ひしたいのでムいます。)

と、誠に悩ましげに俯向く。

(これは驚いた。)と自分等二人は同時に云つた。(石川さん、怎したんです、一体。)と、奥村君は自分を佶と見る。自分はそれには答へずに、(一体怎なすつたのです。)と膝を進めた。

(アノ、)と復俯向いて、(恁麼事申上げて、私真個に消え入りたい様でムいますが、実は一昨晩貴所のお帰りになつたアトで、兄と一緒に相生町の宅へ参つたのでムいます。そして母から、其麼軽卒な事をするものでないと大変叱られたんでムいます。それから考へて見ますと、成程私は、百本二百本の見えない縄に縛られて、身動きも出来ない身でムいますのに、遂それを忘れて、自分一人の考へなぞ申上げましたのは、誠に軽卒であつたと気がつきましたので、真個に怎も貴所には相済みませんですけれど、何卒お許しなすつて……。)

 百本二百本の見えない縄! 見えない縄! と自分は心で繰返して、何とも云ひ難い、悲しい、哀い、感に胸が一杯になつた。木の枝は折られても天へ向かうとする。一本なり二本なり見えざる縄を絶ち切つて幾分なりと自由を得ようとするのは自分等。踏み蹂られても折れた儘で下むく美しい花を開く百合の花。縛られれば縛られたなりで、温なしく観念の眼を閉ぢ、運命に朊従しようと云ふのが女の身の優しい所、美しい所。自分は暫しは云ふべき言葉を見出しかねた。

(さうでしたか。それで安心しました。)と云つて自分は吻と息を吐いた。そして、母君として子たる貴女に然う云はれるのは尤の話だ。然し母君は決してさう許り思つて居られるのではない、と、昨日会見の結果を詳しく話して、要するにアトの事は、母君や兄上に任せて置いて貰ひたい。自分は数日中に此問題は芽出度解決すると信ずる。と云つて、そして斯様な事は新旧思想の衝突絶えざる今の世に於ては誠に止むを得ぬ出来事である。然しさうかと云つて、決して悲観する事はない。凡ての人の縛られて居る見えざる縄を、一本宛二本宛絶ち切つて、自由の新時代を早めてゆくのが我々の務めである。然し、今貴女に自ら其縄を切つてくれと無理な註文はせぬ。唯そんなに悲観せずに、万事天祐を信じて待つて居てくれと話した。

 釧路行の話などしてる所へ、兄の保君が来た。話に花が咲いて、自分は頻りにビスケツトを頬張つたが、七時頃辞した。出て来る時、自分は此事件の解決を見ずして釧路に行くのは実に残念であるけれども、然し自分は確かな希望を持つて居る。(今夜は自分の、桜庭ちか子さんにお目にかかつた最後であると信じます。今後永劫に、再びと桜庭ちか子さんにはお目にかかりません。……)

(成程!)と保君が云つて膝を打つた。

 二人は女の事を彼是と話し乍ら、雪に喰ひこむ足駄の歯を鳴らしつつ帰つて来た。

    ――・――・――・――・――・――

 奥村君の宅――と云つても人の家の坐敷を借りて妊娠五ケ月の妻君と弟と三人雑居の――に寄りて、海カジカの煮たので夕飯を御馳走になつて、いろいろ話し乍ら沢田君を訪ふた。ちか子さんを連れて来るものと許り思つて居たので、失望したらしかつたが、自分等は其理由を話して、雑談に時を移した。然しちか子さんの云つた事だけは洩さなかつた。

 社長の出立は十八九日になるとの事。今日昼に一寸社へ行つて、社長に逢ひ、家族は当地に置いて自分一人行く事にキメて来た事を忘れて居た。

 宅へ帰つたのは十二時過であつたが、飯を喰つて――大口魚の煮たので――“其面影”をよんで、目をつぶつたのは二時過ぐる頃。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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