一月十二日


 

 十一時に起きる。楊枝をつかつて居ると寒雨君が来た。昨夜の相談では二人で行く筈だつたが、それでは話が新らしくなるといふので僕一人行く事になり、一時頃相生町に桜庭君を訪ふ。幸ひ、日曜だ。

 話は要するに昨日の復習だ。昨夜家内相談の結果、母は上束者だから人様の家庭に入つて巧くやれるか怎か疑問だと云ふが、要する〔に〕本人の心次第である。妹は兄や母が行けといふなら行くと云ふて別に進んでも居ないが、其理由が解らぬといふ。僕は、御令妹の然う云はれるのは誠に尤も千万の事だ、其所が乃ち御令妹の御令妹たる所以であつて、義理ある兄に遠慮してる所に、其美しい性格が躍動して居る。それを察せぬとは無粋な話ではないか、と云つた。三時頃保君を同道して真栄町に行つた。

 上図門口に出たちか子さんの笑顔は美しかつた。這入つて話が初まる。谷が其卑しい希望を挫かれたので何等か返報するだらうと云ふのが、大部兄貴の心を痛めて居た。予は醇々として説いた。醇々と云ふよりは寧ろ堂々と、断々と説いた。

(一昨夜はアンナ御答を致しましたが、)とちか子さんが云ふ。(考へて見ますと自分は欠点だらけの上束な女でムいますから、却つて沢田さんに御迷惑では居らつしやらないかと心配で心配で堪りませんのでムいます。ですから若しも只此儘末長く御交際して頂くのでムいますと大変安心なのでムいます。)

(婦人の生命は愛です。婦人から愛を取り去れば、残る所は唯形骸許りです。随つて妻になる資格は、何も面倒なものは要らない、唯愛一つさへあれば充分であると思ふです。尤も、貴女が沢田君並びに其家庭に同情して下さらむのなれば、幾何申上げても致方がないのですが、……然し先夜貴女の御洩し下すつたお言葉から考へるに、決して然うではあるまいと僕は思ふですがな。)

(それはモウ御同情は充分……充分に致して居りまするのでムいます。)と切々に云つて仄かに其美しい顔を染めた。

(そんなら、それで何も面倒な事はムいません。既に母君及び兄上の御考が貴女次第となつて居るのですから、貴女は其唯一つの財産、乃ち其深い美しい同情の御心だけを持つて沢田君の家庭の人になつて頂きたいです。沢田君は無論それ一つの外何物をも要らんです。貴女は手も足も途中に捨てて行つても宜敷い。其心一つで沢田君の落寞たる家庭に春が来ます。僕は頼むです、深く頼むです。)

(若しも、)と云つて顔を上げて眼を輝かしたが、俯向いて、そしてシドロモドロの声で云つた。(若し私の凡ての欠点を御許し下さるなら、御言葉に従ひます。)

 兄貴も聊か面喰つた様であつたが、尤早之以上に云ふ所はない。予は、本問題の骨子が只今の御一言で明瞭に解決を告げたから、アトは之に附帯した事件の解決だけである。然しそれは、今日きめるのも少し慾が過ぎるから、今日はこれだけで喜んでお暇をする。鶴の如く首を長くして待つてる人もあるから。と云つて辞した。日は既に暮れて居る。雨さへ催した温かい日で、道の凍付いた雪が解けて、ザクザクする。

 帰つて飯を済まして、早速沢田君を訪うて、委細復命した。山田町の伯母さんも行つて居て、見合も何も要らぬから至急キメテ呉れと喜ぶ。九時半頃帰つて来て寝た。

 日報の三面に小樽新聞の松田作嶼君が来たと云ふ話をきいた。

 媒人は急がしいものである。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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