一月八日


 

 朝、洗湯に行つて昨年以来の垢を落す。女湯の方から紅の石鹸がコロコロと輾げて来た。十一位になる美しい女の児が裸の儘で、恐る恐るそれを取りに来たが、シヤボンを拾ふと何かに追駆けられる様に駆け出す。途端に運悪く辷つて倒れた。呀ッと自分は思はず声を出すと、紅くなつて遁げて行つた。

 午后大硯君来る。二人共何故か意気銷沈。

 夜、小樽新聞社長上田重良を訪ふ。初めてだ。洋風の応接室にストーヴが暖かい。茶は微温かつた。中西代議士の新たに起す新聞へ周旋してくれると云ふ。帰りに西堀君の店を訪ふ。腰かけて“再会”の話をして居ると、黒綾のコートを着て女靴を穿いた二十二位の女が這入つて来た。二三冊文学的な本を買ふ。話の様子では西堀君と知合らしい。其素性が探りたくなつた。樽新の碧川君が来る。読売新聞の懸賞で当選した一幕物の喜劇を、此処の大黒座に居る俳優に演じさせようと思ふので、今其談判に行く所だといふ。これは昨年二ケ月も腸チブスで避病院に入院してる間に書いたのだ。避病院へ行くのは、実によい。月給は普通に貰つた上に恁う云ふ金儲が出来ると笑ふ。碧川君は帰つた。今の男はこれこれの者だと西堀君に説明すると、

(あれはみよし野生なんですか。)

と女が僕に問ふ。そして遂々火鉢の端へ寄つて来て、自分と向合せに腰かけて手をあぶる。談は碧川君の小樽新聞にかいた小説の事に初まつて、

(それが面白いですね。誰一人面白いと云ふ人が無いんですから。)

と云ふ。焙つて居る手には裁縫用の指抜きを篏めて居て、血の気の漲つた処女らしい肉の美しさ。顔は美人と云ふ程でないが愛矯が溢れて居て、活気があつて瑞々しい。髪はマガレツトとか云ふのであらう。画の話になると、女学世界に挿絵を書いて居る夢二と云ふ人の女は、皆同じ様だと云つて、側らの女学世界を取上げてそれを見せる。成程皆パツチリした円い無邪気な眼をした女許りだ。恰も此女の眼の様に。……自分は面白くなつて来た。……そして夢二と云ふ人は高等商業学校の卒業生だが、天性の嗜好で画が大好きだと云ふ事、斯の如き眼は夢二氏白身の妻君の眼其儘であるさうだと説明する。予の好奇心が益々煽られる。それから、東京の女学生は、文と蚊と音相通ずる所から、文士を称して“虫へン”と云ふと話した。自分が本を読むと、余り凝るからと云つて父なる人に叱られると云ふ事、小説の話の出た時、実社会には小説以上の事件が沢山あるといふ事も話した。自分は、初め女教師かとも思つたが当らなかつた。そして十時過ぎ迄様々話して居て、遂々解らず了ひに足が冷たくなつたから帰つたが、女はそれでもまだ帰らなかつた。若い女が唯一人、夜の十時迄も恁うして居るとは益々解らぬ。唯解つたのは、此女が嘗て江差に居った事があつて其当時より西堀君と知合らしい事、現在は余市の向ふ六里の地に居て、札幌の親類へ行つたのが今日此小樽に来たのだといふ事。何れ気儘に育つた資産家の娘らしいが、独身(?)で居て男を恐れる風の少しも無い事は、此女の来歴を様々に想像させた。

 西堀君から一円五十銭借りて来て、途中で腰煙草入を四十銭、煙管を十銭に求めた。巻煙草は断然やめる決心也。

 帰つて来ると、札幌の小国露堂君が来て、二度見えたが、モ一度来ると云って行つたと云ふ話。間もなくやつて来た。北門新報が財政上の窮状其極に達して、初刷を出してから休刊して居るので、何とか他に口を求めねばならぬとの事。十二時迄話した。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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