一月三日


 

 朝、在原が寄つて、日報社の例の小林寅吉が二三日中に首になるから、大に祝盃を揚ぐべしだとホクホクして居た。社宛に来た小山内君からの新思潮新年号を持つて来て呉れたのだ。

 新思潮に水野葉舟の小説“再会”が載つて居る。読んで異状な興味を覚えた。

 水野といふ男は早稲田大学の政治経済を卒業した男で、六年前は矢張新詩社の一人、当時は蝶郎と号して盛んに和歌をやつたものだ。三十四年(?)に、随分世の中を騒がしてから例の鳳晶子、乃ち現在の与謝野氏夫人が故郷の堺を逃げ出して鉄幹氏の許へやつて来た。与謝野氏には其時法律上の手続だけは踏んで居なかつたが、立派な妻君があって子供まであつた。水野は逢つた事はないが好男子でよく女と関係つける男なさうだ。そこで何とかした張合で晶子女史は水野と稊おかしな様になった。鉄幹氏はこれを見付けて、随分壮士芝居式な活劇迄やらかして、遂々妻君を追出し、晶子と公然結婚して三十五年一月の明星で与謝野晶子なる吊を御披露に及んだのであつた。窪田通治、水野蝶郎等の袂を連ねて新詩社を去つたのは此結婚の裏面を明瞭に表明して居る。聞く所によると、晶子女史は何でも余程水野に参つて居たらしい。故郷に居た時鉄幹氏から来た手紙などは一本残さず水野に見せたといふ。……“再会”は此水野と鉄幹とが赤城山で再会するといふ事を書いたもので、自分の見る所は、全篇皆実際の事、少しも創意を用ゐて居らぬ。新詩社中で予の最も朊して居る高村砕雨君が水野と共に赤城山に行つて居て(二三年前の事)そこへ与謝野氏が行つたのも事実だ。但此時晶子夫人も一緒に行かれたつた様に記憶するが、此小説にはそれがない。小説中山田寒山乃ち与謝野氏の同行者で、色の黒い学生といふのは平野万里、地蔵眉の男は大井蒼梧、職人風の男は伊上凡骨だ。おらくさんと云ふ女の事も嘗て高村君から聞いた実際の女だ。

 明星は十二月号で新年号の予告中に告白して今の所謂自然派なるものに反抗的体度を示した。そして今、自然派の一作家なる水野君は此小説を以て与謝野氏及び新詩社そのものに対する一の侮辱を発表した。何となく面白い世の中になつて来た。予は此“再会”を読んで何故といふでもないが一種の愉快を感じた。予も亦現在猶新詩社の一人であるのだが。

 新詩社の遺方には臭味があると、自分は何日でも然う思ふ。此臭味は、嘗て自分にもあった〔かも〕知れぬ。然し今は無い。毫末もない。此臭味は、ブル臭味である。ガル臭味である。尤も、新詩社の運動が過去に於て日本の詩壇に貢献した事の尠少でないのは後世史家の決して見遁してならぬ事である。詩と広く云ふよりも、単に和哥に於ける革新運動の如きは空前の大成功で、古今に比儔が無い。新体詩に於ての勢力は、実行者と云ふより寧ろ奨励者鼓吹者の体度で、与謝野氏自身の進歩と、斯く云ふ石川啄木を生んだ事《と云へば新詩社で喜ぶだらうが実は自分の作を常に其機関誌上に発表させた事》と其他幾十人の青年に其作を世に問はしむる機会を与へた事が其効果の全体である。新詩社は無論、団体としては、かの文学界の一団のなした以上の事を成功して居る。これは自分も充分、否充分以上に認めて居る。

 然し新詩社の事業は、詩以外の文芸に及ぼす所極めて尠少であつた。あつた許りでなく、今後に於ても然うであらうと思はれる。原因は無論人が無いのだ。新詩社の連中は実に一種の僻んだ肝玉の小さい人許りである。彼等の運動が文芸界全般を動かす事の出来ぬのは実に此の為めである。新詩社は文壇の一角、僅かに一角を占領したに過ぎぬ。そして其同人は多く詩人ぶつて居る、詩人がつて居る。ぶつたり、がつたりする人達のやる事だから、其事業が従って小さい。与謝野氏自身の詩は、何等か外来の刺撃が無ければ進歩しない。それは詰り氏白身の思想が貧しいからである。此人によって統率せらるる新詩社の一派が、自然派に反抗したとて其が何になる。自分は現在の所謂自然派の作物を以て文芸の理想とするものではない。然し乍ら自然派と云はるる傾向は決して徒爾に生れ来たものでないのだ。新詩社には、恐らく自然派の意味の解つた人は一人も居るまいと自分は信ずる。水野君は巧みに彼等を嘲って“彼等は何か一種の神経を持つて居る様な顔をして居る”と云つた。誠に小気味のよい嘲罵であると自分は考へた。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

1