九月二十日


 

 朝起き出れば、入札以来初めての快晴也。程近き湯屋にゆきてふと新聞を手にすれば、綱島梁川氏の永眠を伝ふる記事あり、曰く去る十四日夜十二時遂に長しへの眠りに入れり、享年三十有五、肺を疾んで病床にありしもの十二年なりきと、噫、我が畏友梁川氏死せるか。予三十八年の五月、一日新著「あこがれ《を携へて氏を牛込大久保余丁町なる其寓に訪ひ、山吹の花咲き残る庭を眺めつつ其病室に打語れることありき。後数日にして予は瓢然帰去来を賦し故山に入りしが故に、爾後唯時折の消息に温かき交はりを続くるのみなりしも、予の如きは蓋し同氏の大いなる人格の同情を尤も深く浴びたるものならむ。思へば函館に於て予が詩を評し「哀調人に迫る《云々とかけるハガキを得しが氏の消息の最後なりき。哀情禁せず、帰り来れば、吉野君よりハガキあり、習志野なる病弟の危篤を報ぜられて今夜出発す、「この度の電報こそ最後なるべければ顔見にゆくにて候ふ《と、予は心に泣けり。

 十一時となりて晴れたる空俄かにかき雲り、遠雷の響きへして雨ふり出てぬ。復吉野君よりハガキあり、習志野行は見合せたりと。

 午前中岩崎吉野並木諸君へ手紙及び諸方へハガキ十枚かきたり。大塚君その他より手紙来る、岩本氏より社宛にハガキ来れり。小樽なるせつ子より明日一寸ゆくとのたよりあり。

 夜小国善平君より小樽日々へ乗替の件秘密相談あり、

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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