九月十二日


 

 空はれて高く、秋の心何となく樹々の間に流れたり。この日となりて、予は漸やく函館と別るるといふ一種云ひ難き感じしたり。

 朝のうちに学校の方の予が責任ある仕事を済し、ひとり杖を曳いて、いひ難き吊残を函館に惜しみぬ。橘女史を訪ふて相語る二時間余。

 我が心は今いと静かにして、然も云ひ難き楽しみを覚ゆ。

 恋ひする者をして恋せしめよ。怒る者をして怒らしめよ、笑ふ者をして笑はしめよ、悲しくして泣き、楽しくして笑ふ、これ至理なり、止まるべくして止り、去るべくして去る。この身この心唯自然の力の動くに委して又何の私心なし。この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新らしき友を多く得ぬ。我友は予と殆んど骨肉の如く、又或友は予を恋ひせんとす。而して今予はこの紀念多き函館の地を去らむとするなり。別離といふ云ひ難き哀感は予が胸の底に泉の如く湧き、今迄さほど心とめざりし事物は俄かに新らしき色彩を帯びて予を留めむとす。然れども予は将に去らむとする也、これ自然の力のみ、予は予自身を客観して一種の楽しみを覚ゆ。

 この日、昨日の日附にて依願解職の辞令を得たり、

 午后高橋女史をとひ、一人大森浜に最後の散策を試みたり。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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