九月七日


 

 この日の夜、吉野岩崎並木三君を会して徹夜す。三君は歌を作れり、予は横になりて「明らかなる事実《を思ひぬ。歌唯一首。わがひける心の弓の弦緒きれ逆反りしたり君を忘るる。

 いと忘れ難き夜なりき。予戯れに作りて岩崎君戯れに朗読したるもの次の如し。

  「歌作り、歌の一束枕とし、

  ひとり臥せりて、悲しみの極みに酔はむ、

  あはれその甘きふるひよ。又ひとり

  猛にもえなむ、伊太利亜のエトナの山の

  燃ゆる如。《かくいふ人はさながらに

  達磨の如く打黙し、いとも明るき

  燈火をまともに浴びて、面沈む。

  又足長く横はる反逆の児は

  太股を蚤に喰はれて、がり/\と

  逞まし爪にかきはだけ、さて歌ふらく、

    「空のもの、あらず近くに君あれど

       たゞ手つかねてせむ術もえず。《

  かく歌ひ、あはれ其昔、山寺の

  娘―蔭野にうつむけるよろよろの百合―

  恋ひにけむ日を思出て、から/\と

  ほ手ふち笑ふ。又一人、恋なし男、

  江戸生れ気早の性の若人は

  しきりに歌を生まむとて汗をこそかけ。―

  世に何処唯一人にて予を孕む

  女あるべき。恋なくて歌やは生る。

  この理屈知らぬさまなるもどかしさ。―

  かくて、ひと時咳もせず過ぎにけらしな。

  この時に反逆の児はつと立ちて

  便所にゆきぬ。壁による達磨人 猶

  物いはず。恋なし男呿呻(あくび)しぬ。

  かくて又ひと時すぎぬ。やがて又

  二時過ぎむ。夜はふけて夜廻りが曳く

  金棒の響きさびしく、燈火は

  々と音に鳴き、眠たげに白くこそ照れ。

  こゝにまた一人の男、この様を

  そしらぬ様に寝そべりて、()に面そむけ、

  百人の恋の数々、また昨日

  新らしく得し半熟の恋を楽しみ、

  空寝入、狸つかひて、腹の中

  くすぐる思ひ、ほと息し、涎流しぬ。

  天井の鼠この時ちち(ヽヽ)とこそ

  笑ひにけりな。あはれげに此世の中は

  どこまでもあるが儘にて

  面白き世の中なれや。

 この戯作成りて後、並木君は其いと淡くして趣きある小説の如き恋を語りぬ。吊も知り顔も知れど、相語りたる事なき十八の少女ありき。火事のために家を失はれて母と妹と三人、船して横浜にゆきぬ。並木君は郵船会社員なり。乃ちひそかに小樽丸にゆき、事務長に頼みてこの三人を一等客としぬ。女はこの好意を永しへに知らざるべし。かくて小蒸汽にのりて帰りくる時わが心いふ許りなく満足を覚えき、と。蓋し東廻の滊船には何れも一二等なく三等のみなるなり。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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