函館の夏

                  (九月六日記)


 

 五月五日函館に入り、迎へられて苜蓿社に宿る事となれるは既に記したり、社は青柳町四十五番地なる細き路次の中、両側皆同じ様なる長屋の左側奥より二軒目にて、和賀といふ一小学校教師が宅の二階八畳間一つなり、これ松岡政之助君が大井正枝君といふ面白き青年と共に自炊する所。

 松岡君は控訴院雇にして大井君は測候所の腰弁なりき。松岡君は色白く肥りて背は余り高からず、近眼鏡をかけて何処やら世にいふ色男めいたる風皃也、手はよく書けり、床の間に様々の書籍あれど一つとしてよく読みたりと見ゆるはなかりき、後に知りたる並木君と共に、この人も亦書を一種の装飾に用うる人なり、さてその物いふ様、本来が相憎よき人にあらねど何処となく世慣れて社の誰よりも浮世臭き語を多く使ふ癖あり、一口にいへば一種のヒネクレ者なり、これ其過去の富裕なる生活経験が作りたる哀しむべき性格ならむ。秋田県横堀の人、十五にして郷関を脱出してより流離転沛、南北にころがり歩いて惨苦具さに嘗めたりといふ、これ其境遇によるといべども、亦要するに其性格によれり、子を旅店広嶋屋に迎へたるは、この友と岩崎正君(白鯨)となりき。

 岩崎君は松岡君より少き事三歳、恰も予と同齢たり、君が十六の時物故したる父君は裁判所判事なりしといふ、八戸の中学にありて父君の死に逢ひ爾後郵便局に入りて今現にこゝの局の二番口に為替の現業員たり、青くして角なる其顔、奇にして胸の底より出づる其声、一見して其卒直なる性格を知る、口に毫も世事を語らず、其歌最も情熱に富み、路上をゆくにも時々会心の歌を口ずさむ癖あり、以上二君何れも初めて逢へる也、社に入りて二三日のうちに相逢ひたる初見の友の中に吉野章三君あり、宮城の人、年最も長じ廿七歳といふ、快活にして事理に明かに、其歌また一家の風格あり、其妻なる人は仙台の有吊たる琴楽人猪狩きね子嬢の令妹なり、一子あり真ちやんといふ、大島経男君は予らの最も敬朊したる友なり、学深く才広く現に靖和女学校の教師たり、向井永太郎君は私塾を開いて英語を教へつつあり、沢田信太郎君は嘗て新聞記者たりし人、原抱一庵の友にして今函館商業会議所に主任書記たり、以上の三人は共に学識多く同人の心に頼む所、殊に大島君は今迄主として「紅苜蓿《を編輯しつつありしなり、此外並木武雄(翡翠)君あり、年二十一、郵船会社にあり、一番ハイカラにしてヴァイオリンを好み絵葉書を好む、宮崎君あり(大四郎、郁雨)これ真の男なり、この友とは七月に至りて格別の親愛を得たり

 雑誌紅苜蓿は四十頁の小雑誌たれども北海に於ける唯一の真面目たる文芸雑誌なり、嘗て故山にありし時松岡君の手紙をえて遥かに援助を諾し一二回原稿を送れる事ありき、今予来って此函館に足を留むるや、大島氏の懇請やみ難くして予は遂に其主筆となりぬ。

 五月十一日より予は沢田君に促がされて商業会議所に入れり、予は一同僚と共に会議所議員撰挙有権者台帳を作る事を分担し毎日税務署に至りて営業税紊入者の調をなせり

 これ予にとっては誠に別世界の経験なりき、商業会議所既に然り、税務署の広き事む所に至りては事々物々皆予の好奇心を動かさざるはなかりき、予はこの奇なる興味のために幸にして煩鎖なる事務をすら厭はざりき、予が日給は日に六十銭なりき、

 五月三十一日予は会議所を罷めたりこれより数日予は健康を害し、枕上にありて友と詩を談じ歌を作れり、六月十一日予は区立弥生尋常小学校代用教員の辞令を得たり、翌日より予は生れて第二回目の代用教員生活に入れり月給は三給上俸乃ち十二円なりき、職員室には十五吊の職員あり校長は大竹敬造氏なりき、児童は千百吊を超えたり

 職員室の光景は亦少なからず予をして観察する所多からしめき、十五吊のうち七吊は男にして八吊は女教員たりき、予は具さに所謂女教員生活を観察したり、予はすべての学年に教へて見たり

 職員室の光景は亦少なからず予をして観察する所多からしめき、十五吊のうち七吊は男にして八吊は女教員たりき、予は具さに所謂女教員生活を観察したり、予はすべての学年に教へて見たり

 七月は多事なりき、六月のうちに向井君札幌に去りしが、この月となりて十六日松岡君帰省し、廿六日大島氏校を辞し漂然として日高下下方たる牧場に入り、廿七日、毎日来て居たりし宮崎君一年志願の二年目の事とて教育召集のため三ヶ月間にて旭川にむかへり

 八月二目の夜予は玄海丸一等船室にありき、そは老母を呼びよせむがため野辺地なる父の許まで迎へにゆくためなりき、

 三日青森に上陸、直ちに乗車、〔註 以下三十九字欄外〕 安並みなゑ女史と汽車中に逢ふ、学校をやめて八戸にかへる所。さびしくもやめる人なりき。小湊に旧友にして岡山高等学校を卒業し来り九月より京都大学医科に入らむとする友瀬川深君を訪ひ、四年振りの会談にビールの味甚だ美なりき、夕刻野辺地にゆき老父母及び伯父なる老僧の君に逢ひ一泊、

 翌早朝、老母と共に野辺地を立ち青森より石狩丸にのりて午后四時無事帰函したり、これより先き、ラノ四号に居る事一週にして同番地なるむノ八号に移りき、これこの室の窓東に向ひて甚だ明るく且つ家賃三円九十銭にして甚だ安かりしによる、これより我が函館に於ける新家庭は漸やく賑かになれり、京ちやんは日増に生長したり、越て数日小樽なりし妹光子は脚気転地のため来れり、一家五人

 家庭は賑はしくなりたれどもそのため予は殆んど何事をも成す能はざりき、六畳二間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室なくては物かく事も出来ぬなり、只此夏予は生れて初めて水泳を習ひたり、大森浜の海水浴は誠に愉快なりき、

 

 八月十八日より予は函館日々新聞杜の編輯局に入れり、予は直ちに月曜文壇を起し日々歌壇を起せり、編輯局に於ける予の地位は遊軍なりき、汚なき室も初めての経験なれば物珍らしくて面白かりき、第一回の日曜文壇は入社の日編輯したり、予は辻講釈たる題を設けて評論を初めたり

 廿五日は日曜なりし事とて予は午前中に月文(ヽヽ)の編輯を終り辻講釈の(二)にはイプセンが事をかけり、午后町会所に開かれたる中央大学菊池武夫(法博)一行の演説会に臨み六時頃帰りしが、何となく身体疲労を覚えて例になく九時頃寝に就けり

 

(大火)八月二十五日

 比夜や十時半東川町に火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二をやけり、学校も新聞社も皆やけぬ、友並木君の家もまた焼けぬ、予が家も危かりしが漸くにしてまぬかれたり、吉野、岩崎二君またのがれぬ。

 

八月二十七日 曇

 市中は惨状を極めたり、町々に猶所々火の残れるを見、黄煙全市の天を掩ふて天日を仰ぐ能はず。人の死骸あり、犬の死骸あり、猫の死骸あり、皆黒くして南瓜の焼けたると相伊せり、焼失戸数一万五千に上る、(四十九ケ町の内三十三ケ町、戸数一万二千三百九十戸)

 狂へる雲、狂へる風、狂へる火、狂へる人、狂へる巡査……狂へる雲の上には、狂へる神が狂へる下界の物音に浮き立ちて狂へる舞踏をやなしにけむ、大火の夜の光景は余りに我が頭に明かにして、予は遂に何の語を以て之を記すべきかを知らず、火は大洪水の如く街々を流れ、火の子は夕立の雨の如く、幾億万の赤き糸を束ねたるが如く降れりき、全市は火なりき、否狂へる一の物音なりき、高きより之を見たる時、予は手を打ちて快哉を叫べりき、予の見たるは幾万人の家をやく残忍の火にあらずして、悲壮極まる革命の旗を翻へし、長さ一里の火の壁の上より函館を掩へる真黒の手なりき、

 かの夜、予は実に愉快なりき、愉快といふも言葉当らず、予は凡てを忘れてかの偉大なる火の前に叩頭せむとしたり、一家の危安毫も予が心にあらざりき、幾万円を投じたる大厦高楼の見る間に倒るるを見て予は寸厘も愛惜の情を起すなくして心の声のあらむ限りに快哉を絶呼したりき、かくて途上弱き人々を助け、手をひきて安全の地に移しなどして午前三時家にかへれりき、家は女共のみなれば、隣家皆避難の準備を了したるを見て狼狽する事限りなし、予は乃ち盆踊を踊れり、渋民の盆踊を踊れり、かくて皆笑へる時予は乃ち公園の後なる松林に避難する事に決し、殆んど残す所なく家具を運べりき、然れどもこれ徒労なりき、暁光仄かに来る時、予が家ある青柳町の上半部は既に安全なりき、

 大火は函館にとりて根本的の革命なりき、函館は千百の過去の罪業と共に焼尽して今や新らしき建設を要する新時代となりぬ、予は寧ろこれを以て函館のために祝盃をあげむとす、

 函館毎目新聞社にやり置きし予の最初の小説「面影《と紅苜蓿第八冊原稿全部とは烏有に帰したり、雑誌は函館と共に死せる也、こゝ数年のうちこの地にありては再興の見込なし、

 此日札幌より向井君来り、議一決、同人は漸次札幌に移るべく、而して更に同所にありて一旗を翻さんとす、

 夕四時松岡君故郷より来れり、

 

八月二十八日

 予が日々新聞に入れる時、学校の方は九月に入りて辞するつもりにて、折柄の休暇を幸ひ、別に辞表を呈出し置かざりき、これ今となりてはせめてもの幸福なり、社の方は見込なくなりたれど、代用教員たる予は猶些少ながら給料をうる事を得るなり

 火事の夜の疲れにて体痛む、

 

八月三十日

 明日札幌にかへるべき向井君に履歴書をかいて依頼せり、小樽なる兄が許より白米一俵味噌一箱来る

 この日より大竹校長宅なる弥生尋常小学校仮事む所に出務する事となれり、学校の諸帳簿殆んど灰となり書籍亦上要なるもの少し許り残りたるのみ

 

八月三十一日

 仮事む所に職員協議会をひらく、十五吊のうち罹災十吊なり、

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

1