五月五日  ― 青森 ―(陸奥丸)― 函館 ―


 

 五時前目をさましぬ。船はすでに青森をあとにして湾口に進みつつあり。風寒く雨さへ時々降り来れり。

 海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔ひつ。光子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕ふらむと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。

 予は少しも常に変るところなかりき。舷頭に佇立して海を見る。

 偉いなるかな海! 世界開発の初めより、絶間なき万畳の波浪をあげる海原よ、抑々奈何の思ひをか天に向って訴へむとすらむ。檣をかすむる白鴎の悲鳴は絹を裂く如し。身をめぐるは、荘厳極まりなき白浪の咆哮也、眼界を埋むるは、唯水、唯波。我が頭はおのづから低れたり。

 山は動かざれども、海は常に動けり。動かざるは眠の如く、死の如し。しかも海は動けり、常に動けり。これ上断の覚醒たり。上朽の自由なり。

 海を見よ、一切の人間よ、皆来つて此海を見よ。我は世界に家なき浪々の逸民なり。今来つて此海を見たり。海の心はこれ、宇宙の寿命を貫く永劫の大威力なり。

 噫、誰れか、海を見て、人間の小なるを切実に感ぜざるものあらむや。

 我が魂の真の恋人は、唯海のみ、と、我は心に叫びつ。

 


※テキスト/石川啄木全集・第5巻(筑摩書房 昭和53年) 入力/新谷保人

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